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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第27回 路地裏映画館⑨ プロテストソングは、小さな声で歌われる−『ほたるの川のまもりびと』

ノンフィクションとフィクションの境目
 昨年末から、続けざまに4本のドキュメンタリーの映画評や、推薦文を依頼されることになった。そして、その4本ともに劇場での対談が企画され、渋谷ユーロスペースや、東中野のポレポレへと出向いていった。

 その4本とは『毎日がアルツハイマー・ファイナル』(関口祐加監督)、『ほたるの川のまもりびと』(山田英治監督)、『Workers被災地に起つ』(森康行監督)、『牧師といのちの崖』(加瀬澤充監督)である。山田監督、森監督、加瀬澤監督とは、上映後の対談を行った。

 一概には言えないが、映画監督との対談は、何故かとても自由な空気があって、気持ちが良い。普段はもの書きとの対談が多いが、異分野の表現者との対談では、こちらがよくわからないことを聞けるので興味が尽きることがないし、こちらも素人として忌憚のない意見を言うことができるからだろう。

 この間に、これまで見落としていた想田和弘監督の『演劇I』『演劇II』も観た。こちらは5時間にわたる長編だが、その面白さに時間を忘れた。想田監督と対談したとき、「親戚のおじさんと話しているようだ」と言ってくれたが、どこに転んで行くかわからない展開になったのも、こちらが素人であることと関係しているように思える。

 さて、この間観た作品は、どれも見応えがあり、考えさせられることが多いものばかりであった。日頃あまり、ドキュメンタリー作品を観る機会がないわたしにとっては、これほど多くのドキュメンタリーのフィルムメーカーが活動していることにも、驚かされた。驚いたのは、ただ、こちらの知識不足で、ドキュメンタリーこそ、映画の基本なのかもしれないと、改めて感じさせられる出来事だった。

 これらの作品のうち、わたしが店主をしている隣町珈琲(品川区中延)でも、『ほたるの川のまもりびと』と、『Workers被災地に起つ』を上映し、どちらも満員の盛況であった。

 ドキュメンタリー映画とは、事実をありのままに伝える映像というのとは少し違う。そこに筋書きが一切ないといえば、嘘になるだろう。台本がある場合もあるし、編集では監督の意向が反映されるのは当然である。
 監督の頭の中には、あらかじめ撮りたい映像や、おぼろげなストーリーの行方が見えているのかもしれない。少なくとも、定点にカメラを設置し、そこに映り込んでいる映像だけを編集したものではないので、そこに何らかの作為が働くのは避けられまい。

 かといって、ドキュメンタリー映画は、フィクションではない。作り話を入れ込むことは禁じられている。
 別に、誰が禁じたわけでもないが、虚構を混ぜ込んでまで作者のメッセージを伝えたいというのなら、それがドキュメンタリーではないことをあらかじめ観客に知らせておく必要がある。それが、フィルムメーカーの節度であり、情報の送り手と受け手の間に交わされている暗黙の約束というものだからである。

 そうしたことを考慮した上でも、一つの事実が、カメラの位置、対象との距離、場面の選択によって、様々な異なった意味を浮かび上がらせる。

 有名な黒澤明の『羅生門』は、この問題をフィクションという形式で浮かび上がらせている。平安時代、羅生門を舞台にして、殺害された武士についての取り調べの様子が、映像化される。殺害事件について取り調べの対象となって供述するのは、盗賊の多襄丸(三船敏郎)、薪売り(志村喬)、旅法師(千秋実)、武士の妻真砂(京マチ子)。ところが、それぞれの話は食い違い、一つの事実が様々な様相を見せる。さらに、彼らの嘘を見抜く下人(上田吉二郎)、フィクショナルな真実を再現する霊媒師(本間文子)などが次々に登場し新たな解釈をし始めると、何が真実なのかがさらに曖昧になっていく。

 この映画は、芥川龍之介の『藪の中』を翻案したものだが、事実というものは、それを語る人間の欲望のバイアスによっていかようにも異なった様相を見せるものであることを改めて思い知らされてくれる。

 果たして、ドキュメンタリー作家は、自らの欲望から全く自由に、事実を切りとることが可能なのか。もし、それが可能であったとして、その映像を観ている観客もまた、自らの欲望から離れて事実に向き合うことが可能なのか。

 わたしが観た4本のドキュメンタリー作品には、『羅生門』に描き出されたような劇的なドラマはほとんどない。むしろ、淡々と事実の映像を積み重ねているように見える。

 しかし、それでもなお、それが客観的な事実であるのか。もしそれが、事実であるとすれば、観客はそこからどんなメッセージを読み取るのか。観客の中にある欲望は考慮しなくて良いのか。そうした、事実と事実の切り取り方とのあいだに広がる乖離が気になってくる。

 ドキュメンタリー作品を観ていて、わたしはいつも、そこに立ち止まってしまう。

メッセージ
 わたしが観た4本の作品は、それぞれの仕方で、観客にメッセージを届けようとしているように思えた。人間は、自らの老いや死とどうやって向き合うべきなのか。災害で困っている人が傍にいるとき、人間はどのような態度を取りうるのか。自殺志願者に、生きる意味を伝えることは可能なのか。そして、横暴で理不尽な権力に、ひとはどうやって対抗することができるのか。

『ほたるの川のまもりびと』は、1962年に計画された長崎県の美しい小さな里のダム建設に反対する13家族の、抵抗の様子を丹念に追ったドキュメントである。64年の東京オリンピックに向かう時代の、乱開発の途上で計画されたこのダム建設は、現在はほとんどその意味を失っている。ダムの目的は、利水と治水だが、そのどちらももはやこの村の火急の課題ではなくなっているのである。

 そして、ダム建設は自然に恵まれた肥沃な土地をまるごと水没させることになり、貴重な生態系を破壊し、なによりも先祖代々守り続け、耕し続けてきた土地を住民から奪い取ることになる。

「政治闘争的なものではなく、生活をまもり、家族をまもる生活実感をとおしてこの抵抗運動を描き出したいと思った」と山田英治監督は語った。
 博報堂のサラリーマンとしてコマーシャル映画を撮っていた山田監督にとって、このアプローチは自らの経験を生かすために思いついた自然なものだったと思う。

 映画は、緑豊かな山間の盆地のような村の風景の俯瞰からはじまる。
 長崎県東彼杵(ひがしそのぎ)郡川棚町河原地区。石木ダムの建設予定地である。

 ダムは大村湾に注ぐ川棚川の支流である。石木川に建設が予定されている。石木川は小さな川で、流域にはさまざまな小動物が生息し、春になればほたるが飛び交って幻想的な風景を見せる。このダムができると、この地に住む13世帯の家屋、田畑は水没することになる。

 映画は朴訥なナレーションで始まる。この地で育ったひとりの少女の声。
 少女と、里のひとびとはほとんど家族のように親しく、愛情深く、村人をひとりひとり紹介してゆく。まるで、里山の紹介ビデオである。
 この導入を観て、この映画がこれまでの公権力批判のための政治的なメッセージを伝えるものとは一味違うものであることが伝えられる。曇りのない、少女の目を通して、里山がおかれた現実を眺めるという仕掛けになっている。風にそよぐ稲穂や、トカゲやホタルという小動物が、科学映画の一場面であるかのように映像のなかに挟み込まれる。

 澄んだ小川に子どもたちが飛び込む。水しぶきが太陽の光でキラキラ光る。
 反対運動を担っているのは、女性達である。
「まなじりを決して」というのではない。毎朝、どこの町にもある、世間話に花がさく。スーパーのちらしをみながら、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえながら、ささやかな情報交換をしている。
 女性たちは、おいしそうなごはんを釜で炊き、弁当を作って配る。
 もし、彼女らがマスク、ゼッケンをつけていなければ、抵抗運動を担う存在であるなんて、誰も思わないだろう。

 登場人物には、どこにも闘士といったいかつさは感じられない。ふつうの、働きものの、善良な人々が、いまのままの生活を続けたいと願っている。それでも、半世紀にわたる抵抗運動を続けていれば、それがかれらの日常になる。 

 おばちゃんがインタビューに答えて「殺されてもよかっていう覚悟はできとる」と言う。そこには、もはやこの運動がかれらの人生そのものであることが伺える。おそらく、多くの観客は、映画を観ながら、この13家族に、会ってみたいと思うだろう。そこには、現代社会が失いつつある、生き延びるために人々が支え合う光景があり、よきひとびとの体温が感じられるからである。

 この映画が伝えてくるメッセージは、もちろん権力と農民たちとのあいだの圧倒的な非対称のなかで進行するダム建設の不条理だが、人間が人間らしくあることの意味が立ちのぼってくる。

小さな里に響く、小さなうたごえ
 ひとりのイラストレーターが、登場する。いしまるほずみさん。現地で『こうばる通信』という手書きの情報誌を発刊している。およそ、抵抗運動とは無縁の、物静かで、不器用な若者である。躁鬱に苦しんだ彼女のとつとつとした語りと、『こうばる通信』に描かれる村人のほっこりした似顔絵や、むらの出来事を伝える漫画に癒されるのは、村人だけではないだろう。

 映画の終盤、それぞれの登場人物が、それぞれの場所で、歌い始める。

「こーこは、こうばる。ほーたるのさと。ふーるさと愛する、ひーとがすむ」

 ちいさな歌声が次第に大きくなって、美しい村里の風景のなかに響きわたる。
これは、いわゆる「やらせ」ではないのか。
 ドキュメンタリー映画の文法を踏み外していると言われるかもしれない場面である。

 しかし、この場面を観て、わたしは目頭が熱くなった。
 山田監督にとって、本当に伝えたいことが、この歌声のなかにあるのだと思う。
 山田監督自身が、ドキュメンタリー作品の完成度以上に、重要なことを、撮影を通して学んだのかもしれない。
 監督との対談のなかで、わたしはこんなことを聞いている。

「あらかじめ、おとしどころというか、台本のようなものを用意するのですか」
「それは、監督によって違うだろうと思います。ぼくは、コマーシャル出身なので、どうしてもフレームを考えてしまいます。
 でも、実際にカメラを回していると、自分の狙いが裏切られるんです。それが、ドキュメンタリーというものだと思いました」

 ひとつの映画作品がきっかけとなって、事実が、あたらしい事実によって上書きされるのだとすれば、それもまた、ドキュメンタリー作品の光栄だと思う。
[隣町珈琲]で、上映後、誰ともなく、「現地に行ってみよう」という声が上がった。
 5月、緑のもっとも美しく輝くときに、現地視察のツアーに行くことが決まった。

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