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平尾 剛

平尾 剛/スポーツ教育学者

元日本代表ラガーマンが書き下ろす「スポーツは、だから面白いし飽きない」。 読めばもっと身体を動かしたくなる、面白いゲームが観たくなること必至。

第20回 イチロー選手の引退会見から

 私には生まれて間もない娘がいる。生後10ヵ月の娘は最近ハイハイを覚え、自力で空間を移動している。周りをキョロキョロし、目ぼしいものを見つけてはそこまで地面を這ってゆく。寝返りしかできなかったころに比べると、心なしか表情が柔和だ。自分の意思で動けることのよろこび。初めて手に入れた自由から得られるそのよろこびを、全身で感じているようである。

 だが、開放感を伴うあのうれしそうな表情も、やがては見られなくなる。ソファを支えにして伝え歩きしながら、ときにこちらをみつめて「ドヤ顔」をする、あの愛くるしい姿も今だけだ。いずれ見られなくなる、それを思うと切ない。成長ぶりによろこびを感じるとともに一抹の寂しさが過る。
 だから今この瞬間の娘の姿を目に焼きつけておきたいと思う。今しかない、かけがえのない時間として記憶にとどめたいと、切に思う。

 スポーツ選手には必ず現役を引退する日が訪れる。スポーツ選手は人生の半ばで現役生活に別れを告げなければならなくなる。
 いつか終わりがくる。
 それがわかっているから「今」が輝く。
 その輝きにファンは声援を送る。
 無意識的ではあろうが、刻一刻と終わりに近づく焦燥感を抱えながらアスリートは自らのパフォーマンスを高めるために尽力している。限られた時間の中でどこまで辿り着けるかにすべてを注ぎ込んでいる。私たちスポーツファンは、どこか心の奥でその儚さを感じながらスポーツを観ているのではないか。特定の選手を応援する熱烈なファンは、まるで我が子を見守るようにアスリートを見ているのではないだろうか。

 勝敗に一喜一憂するのもスポーツの楽しみ方だが、やがて訪れる終焉を先延ばしにすべく努力を続けるアスリートの「今」を見つめるのもそのひとつだ。盛者必衰や栄枯盛衰を目の当たりにし、人が成熟する様や世の移り変わりをそこはかとなく連想できるのもまた、スポーツの醍醐味だと私は思う。
 死は忌むべきものではなく、むしろ生を輝かせるものだ。宗教や哲学が示すこの真理を、私たちはスポーツを通して繰り返し味わっている。
 少なくとも私は、アスリートの引退に触れるたびにいつもそう感じる。


 2019年3月21日、イチロー選手は現役引退を表明した。日本で9年、アメリカメジャーリーグで19年もの長きに亘った競技生活に終止符を打った。
 率直にいうと、この報せを耳にしてもさほど驚かなかった。おそらくほとんどの人はそうではないかと思う。というのも、すでに昨シーズンに「事実上の戦力外通告」を受けていたからである。

 2018年5月4日にマリナーズの本拠地セーフコフィールドで行った記者会見で、イチロー選手は球団の会長付特別補佐に就任することを明らかにした。残りの試合には出場しないものの、ユニフォーム姿で練習を行いつつアドバイザーとしてチームに同行するのがその役割で、過去に前例のないこの処遇は、球団が「50歳まで現役」を公言するイチロー選手の意を汲み、長らくチームに貢献したイチロー選手に敬意を表したものだという。

 しかしながらベンチ入り25人枠から外れたことに変わりはない。マリナーズのディポートGMは、「プレーへの扉は閉じていない」と来季以降の復帰の可能性を示唆したが、1年ものあいだ実戦から遠ざかったのちの現役復帰は現実的ではない。類稀なる身体感覚を備えたイチロー選手自身も、1年のブランクがもたらすパフォーマンスへの影響がどれほどのものかを想像できたはずだ。それを承知で特別補佐就任を受け入れたのだとすれば、胸中を察するのは難しいことではない。

 このときイチロー選手は引退の二文字を深く心に刻みつけたに違いない。
 記者会見の最後で「野球の研究者でいたい。この先どうなっていくのか。毎日、鍛錬を重ねていくことでどうなれるのか」と口にした。自らを選手ではなく「研究者」と称したことが、はしなくもそれを物語っている。

 だから心の準備はできていた。にもかかわらず報せを耳にしたとき、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。現役選手生活を終えて研究者になってからずっと、「言葉を持ったアスリート」としてイチロー選手の言動を注目していた私は、一つの時代が終わったように思えたのだ。
「時代が終わる」というのはいささか大仰な表現かもしれない。だが「イチロー引退」にはあえてそう書くだけのインパクトがある。思わず誇張したくなるほど、イチロー選手は余人をもっては代え難い人物だと私には思われるからである。

 以前にも本コラムで、「自分の言葉」を持っているという点で、イチロー選手はどのトップアスリートとも一線を画す存在であると書いた。身体感覚を研ぎ澄ますだけで事足りるアスリートでありながら、それを指し示す言葉を持ち合わせている。こんなトップアスリートは、どの競技を見渡しても私には見つけることができない。

 職人の技能を意味するクラフトマンシップは本質的に言葉に馴染まない。卓越した技術や秀逸な作品の言語化は、それを支えている感覚を鈍らせる方向に作用してしまうからだ。技能や技巧を支える「身体にめり込んだ感覚」が狂い、結果的に技術や作品の完成度を下げることにもなりかねない。クラフトマンシップの言語化は、かような危険性をはらんだ極めて難解な作業なのである。

 しかし彼は言葉を重んじた。経験と身体感覚だけを頼りに言葉を紡いだ。戸惑いや挫け、意欲の高まりや失望など心と身体(からだ)から発せられる微細なシグナルに耳を澄まし続けた。自前の言葉だけでそれを象り続けた。
 引退を表明した記者会見でも、イチロー選手はいつものように最初から最後まで、経験に裏打ちされた自らの言葉で語っていた。試合後すぐで疲労が蓄積していたはずなのに、1時間30分にも及ぶほどの長時間、記者からの質問に誠実に応え続けていた。


 イチロー選手はすぐに返答しない。質問を受けてからしばらく間をとって考える。どこかを見つめながら「えーっと……」「うーん……」「うん……」とつぶやきながら答えを探っている。過去を振り返り、当時の自分が感じていたこと、考えていたことをひとつひとつ具(つぶさ)に検証している。これはいつのときも思考しながらプレーしてきたからこそ為せる業だろう。

 誰もが理解しやすい出来合いのフレーズや使い古された表現に頼ることなく、このからだにありありと残る身体実感を指し示す言葉を探し当てようとしている。おそらくイチロー選手自身も自分が何を語ることになるかを、話し出す前には正確にわかっていないはずだ。

 経験はすぐに言葉にならない。今まさに経験するその瞬間は、言葉で捉えるにはあまりに膨大だからだ。感覚器をはじめとするからだ全体が感受する様々な情報と、その総体としての経験は、すべてを言葉に置き換えることは不可能である。たとえるならば、コップで海の水をすくい上げるようなものだ。コップの中の海水は海の一部でしかない。それほどの情報量が経験には含まれている。

 ただ、それなりに時間が経ち、海から上がって海岸から遠目に眺めたときに初めてその全貌が見えてくる。はるか彼方にまで広がる海面、太陽が落ちてゆく水平線、繰り返す波で片時も同じ状態にはないその迫力、晴れた日には青々と、でも夜はどす黒くなるその落差。手持ちのコップではすくい切れない海がそこにある。

 イチロー選手は大海に身を委ねてただただ手足をばたつかせていたいつかの自分を、まさに記者から質問を受けたその場で振り返っている。当時の身体実感にフィットする言葉を探す。つまり記者からの質問をきっかけに、その場、その瞬間で言葉を絞り出している。記者会見を視聴する私たちは、まさに言葉が生まれる瞬間に立ち会っている。

 用意された書き言葉ではなく、出来合いのフレーズでもない、経験者のリアリティがともなう鮮度の高い言葉は、私たちの心を捉えて離さない。 
 イチロー選手は重複した質問には応えない。「それはさっき言ったから」と突き返す。この様子は、ともすれば上から目線の横柄な態度に映るかもしれないが、それは大きな間違いだ。重複するような質問をした記者が礼に失している。すでに自分が口にした言葉に責任を持つからこそ質問を突き返すのだ。先ほどのやりとりを聞いていなかったのですかという、イチロー選手からの痛烈な批判である。

 その場で同じ話を繰り返すことほど時間の無駄はない。居酒屋のカウンターで酔客が同じ話を繰り返すときの、途方もない脱力感を思い出せばわかるだろうか。話を深めていくためには言葉を積み上げていかねばならない。すでに発せられた言葉の上に、それを踏まえた上での新たな言葉が乗っかって、初めて会話の次数が繰り上がる。イチロー選手はおそらくそのことを肌で感じている。同じ話を繰り返すときの無駄な労力は使わない。ここにアスリートとして鍛錬してきた人に特徴的なふるまいがみてとれる。

「なんかおかしなこと言ってます? 僕」
「聞いてます?」
 そう記者に訊き返し、自分の言葉が届いているかどうかを確認する場面もあった。自らが発した言葉が相手にきちんと受け取られているかどうかを気にするのは誠実さの現れだ。質問をきっかけに過去を振り返ることで生まれた言葉は、いわば記者とイチロー選手の合作である。感覚を言葉にするという困難な作業を経たのちに生まれた言葉だからこそ、きちんと受け止めてもらいたい。おそらくイチロー選手はそう願っている。

 ここには、言葉遊びをしたくないという強い意思がある。イチロー選手にとっては記者会見も試合と同じで、それにふさわしい緊張感が必要だと考えているのだと思う。だからこれらの切り返しには、記者にも緊張感を持ってもらいたいという期待が含まれている。


 ここまではイチロー選手の語り口について書いてきた。
 ここからは語られた内容について、いくつか取り上げてみたい。

 いつものことなのだが、身をよじりながら放たれた言葉の数々は珠玉だった。 
 現役生活を通じて、楽しかったと純粋に言えるのはオリックスで3年目にレギュラーになるまでだったという。それ以降は常に周囲の期待に応えるべく、苦しい日々を過ごしていたらしい。実力以上に評価されることの苦しさが、いつもついてまわっていた。だからといって、楽しくなかったわけではなく、時折訪れる充実感はあった。楽しいとか苦しいとかでは単純に割り切れない感情がうごめいていたことを赤裸々に語っていた。

 苦しさと楽しさが入り混じるこの心情は、元アスリートとしてとても共感できる。
 まずベースにあるのが、周囲の期待に応えなければならないという苦しさだ。その上で目標を達成できたときに瞬間的に生じるよろこびをときどき感受する。長く苦しい時間を過ごしたのちに一瞬だけ訪れる開放感にアスリートはこの上ない充実感を得るものだ。そしてこの充実感をファンとともによろこび合う。自らのよろこびと周囲のよろこびとが一致する稀有な経験こそがスポーツの醍醐味であり、この複雑な心的プロセスを総じたものが「愉しい」という表現に集約されている。

 ほとんどのアスリートが口にする「愉しむ」という言葉遣いは、苦しさを含み込んでいるからこその表現である。一切の苦しみがないところで「愉しむ」という能動的な言葉は使わない。楽しさだけで満たされた空間では、ただただその場の雰囲気に身を委ねるだけで事足りるからだ。ともすれば苦しさにひるんでしまう情況だからこそ、「愉しむ」という意思を伴った主体的な構えが必要となる。
 アスリートに固有の「愉しさ」について、イチロー選手は身体的な言葉で彩り豊かに語っていた。

 アメリカに渡った当初、ファンやチームメイトからは「日本に帰れ」とよく言われたという。異国の地からやって来た若者にメジャーリーグは冷たかった。だが、結果を残したあとは手のひらを返したかのような賞賛を浴びた。行動で示したあとの敬意の表し方には迫力があったと、イチロー選手は語気を強めていた。

 この言葉には日本とアメリカの国民性の違いが如実に表れている。移民の国であるアメリカではその素性がはっきりしない者には容赦がない。どこの馬の骨かわからない者には心は許さない。しかし一転して具体的に行動で示した暁には自分たちの仲間と認める。見ず知らずの者に対して自らの価値観を当てはめてレッテルを張り、そのレッテルをなかなか剥がせない日本とは違い、わからない者はわからない者として分類しておいて、その後の行動でその人が味方かどうかを判断する。それをイチロー選手は肌身で感じたのだ。
 別の質問に対して応えた「日本への復帰は頭になかった」という言葉の裏には、両社会の違いからくる「風通しの良さ」を実感してのことではないかと私は思う。

「成功という言葉が嫌いです」ともイチロー選手は言った。
 何か新しいことを始めるとき、成功するつまりできると思って挑戦すれば後悔が生まれる。できるかできないかではなく、やりたいかやりたくないかで挑戦を決めなければ達成感は生まれないと。

 いわれてみると確かにそうである。成功を見込んで事を始めれば、もし成功できなかったときにはその決断そのものが間違っていたのだと自らを責めることになる。そこに向かうまでのプロセスはすべて成功のための手段でしかない。だとすればそのプロセスに身を置くあいだずっと、耐え忍ぶという実感しかない。それで報われればまだしも、新しく試みるプロセスには失敗がつきものだから主観的には挫折の連続となる。成功を望むプロセスはどこか息苦しい。

 しかし、そこにわずかでも「やりたいからやっている」という意欲があったなら、プロセスそのものから手応えが感じられるし、自分や周囲へのエクスキューズにもなる。高みを望みつつも、それを見越して取り組むのではなく、その取り組み自体から楽しさを引き出すことができれば、その都度、達成感が得られる。

「一気に高みを目指すと『今』とギャップがありすぎて苦しくなる」という言葉も、「少しずつの積み重ねでしか自分を超えていけない」、「後退しかない時期もある」も、成功という結果を追い続けることの無意味さを語っているのだと思う。自らの成長が感じられず、遙か高くに定めた成功がかえって重圧となり、苦しさが増す。そこにやりたいからやっているという自覚があれば、後退しかない時期がおとずれても少しずつ積み重ねることができる。
 そしてイチロー選手は、「野球じゃなくてもいい。熱中できるものがあればいい。それをみつけてほしい」というメッセージを子供たちに向けて送った。


 日米通算4367安打、262本のシーズン最多安打、メジャーで新人王とMVPを同年に受賞、10年連続200本安打(さらに10年連続の3割・オールスター選出・ゴールドグラブ賞……etc.)など、数々の記録を樹立したイチロー選手は、誰も到達しえない高みに上った実感を、「こんなものかなあ」という拍子抜けするような言葉遣いで語っている。想像していたものとは違ったのか、それとも肩透かしを食らったのか、よくわからない。ただ到達した者にしか口にできない感懐であることは確かだ。少しずつ積み上げてきたからこそ、その実感が乏しいのかもしれない。

 ここまで紹介したイチロー選手の言葉には、どこか物足りなさを感じる人がいるかもしれない。愉しさの質、日本とアメリカの違い、成功できるかどうかよりも意欲を動機にする、高みに立ったときの拍子抜けしたような実感など、これまでどこかで聞いた話の範疇を超えないだろう。心理学を学んだ者であれば、そんなことはすでに知っている。そう思うかもしれない。

 だが忘れないでほしい。イチローの言葉は本などの活字から得たものではなく、自らが野球に打ち込む中で体感や経験を通じて身についたものなのだ。
 感覚世界は暗闇だ。その暗闇を、誰かの言葉に頼ることなく身一つで乗り切ってきた。だから、たとえ年輩から若い世代に伝えるメッセージとして使い古された表現と類似していたとしても、その伝わり方はまるで異なる。論理的な説明よりも感覚的で身体的な語りの方が肚(はら)に響く。暗闇を手探りで歩きながらつかんだ言葉だからこその説得力がある。
 イチローの言葉には人を揺さぶり、突き動かす力が備わっている。

「お腹が減ってきちゃったし、そろそろ終わりにしません?」
 イチロー選手はそう口にして記者会見は終了した。多分にリップサービスもあろうが、最後の最後まで身体実感を大切にするその姿勢に、思わず笑みがこぼれた。
 それに倣って、この原稿もそろそろ終わりにしたい。私もお腹が減った。

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