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かぞくのカタチ

家が職場、職場が家

三島邦弘

三島邦弘(ミシマ社代表 編集者)
今をときめく出版社「ミシマ社」のオフィスは会社というより家である。
なぜ「家」なのか? 家だと何が違うのか? へっぽこ代表兼編集者のコラム。

かぞくのカタチ

家が職場、職場が家

第21回 「きんじよ」な関係

 ミシマ社というのは、2006年に創業した出版社である。2018年現在、東京・自由が丘と京都市内の2拠点で活動しており、どちらのオフィスも借りた古民家を、社屋としている。

 京都オフィスの一階には四畳半と八畳の畳部屋があり、ふた部屋を仕切るふすまを外し、大部屋として使っている。何に使っているのか? と言えば、本屋さんとして、である。

 そう、出版社でありながら、本屋さんも営んでいるのだ。その名を[ミシマ社の本屋さん]という。自社本はもちろんのこと、ミシマ社と同じ頃に創業した同規模のちいさな出版社(140B、アルテスパブリッシング、夏葉社、ナナロク社など)や、河出書房新社、筑摩書房、リトルモア、平凡社、毎日新聞出版といった先達の中堅出版社の本も置いている。いわゆるリトルプレスと言われる小冊子も多い。
 れっきとした本屋である。

 ……と虚勢をはってみたが、まったく威張れる代物ではない。
 数年前、[恵文社一乗寺店]の店長をしていた堀部篤史さんが、「きんじよ」に[誠光社]というちいさな本屋さんを開いた。古民家を改修した空間はけっして広くはない。必然、膨大な本を並べることは叶わない。それは、本を愛してやまない堀部さんにとって、物理的制約となっているかもしれない。もっと届けたい本があるのに。そんなジレンマのなかで運営している可能性だってある。

 だけど、ひとりの客としてすがすがしい木の棚と壁で囲われたその空間に身をおくとき、それは杞憂に過ぎないことを実感する。一冊一冊、そして空間の隅々まで堀部さんの意思が通っているのがわかる。凛とした気持ちの良さを感じる。けっして押し付けがましくないけれど、美というものが、ちゃんとそこに存在しているのだ。
 ああ、本屋さんというのは、床面積とか仕入れ冊数とか、そういうことではまったくないなぁ。

 という、至極まっとうな納得を再確認のように得て、わがミシマ社の本屋さんへと戻ってみる。

 古民家であるのは同じ。だが改修はしていない。ふすまを外しただけで、そのまま使っている。つまり、自分たち仕様にしていない。それもそのはず、自分たち仕様というときの「自分たち」などありやしないのだ。ミシマをはじめ、京都オフィスにいる7人の意思やこだわりやセンスなど寄せ集めたところで、堀部さんの足元にも及ばない。

 いってみれば、二軍、三軍の本屋さん。
 そして、それでいい、と思っている。野球であれサッカーであれ音楽の世界であれ本屋であれ、裾野が広がってこそ多様性が生まれ、つきぬけたおもしろさも生まれるというものだろう。もしミシマ社の本屋さんがその裾野の一片にでもなっているなら、望外の幸せというほかない。あ、出版社としては一軍をめざしますよ。はい。

 ところで、先ほど「きんじよ」と表記したが、これは作家いしいしんじさんの表現である。正確に記せば、いしいしんじさんのひとり息子ひとひ君がまだ文字を書けなかった幼少期に、大人の書いた「きんじょ」を見てまねて書いた(絵)文字「きんじよ」に端を発する。
 いしいしんじさんは、こう書く。
 
(仲のいい小さなお店の店主たちを、ひとひ君は−−筆者補記)
  みんな親友だと思っている。ひとひの「きんじよ」は、それと同じ。どこにいったって「きんじよ」だ。
(いしいしんじ『きんじよ』p11-12)
 
(福岡に引っ越すことになった近所の仲良しの子を京都駅まで見送りに行ったときのこと)
  「またあしたね」
  三人の子がいいあう。福岡なんて、うちのすぐ「きんじよ」だ。
(p33)

「近所」というエリアなどない。誰かが決めた区画が、近所であるわけではない。「親友」がいれば、そこが「きんじよ」になる。「仲良し」が引っ越せば、遠く離れた場所だって「きんじよ」になる。 
 文字通り、ひとひ君の家の近所にあるミシマ社京都オフィスもまた、ひとひ君にとって「きんじよ」になっている。
 融通無碍。変幻自在。
 ちいさな男の子が醸し出す「きんじよ」な空気とともにミシマ社の本屋さんは存在している。のかもしれない。

 先日、ミシマの住む町京都で府知事選がおこなわれた。結果は投票率35.17%。史上2番目に低い投票率だった。
 そりゃ、そうだろう。
 とミシマは苦虫を噛み潰すような表情を浮かべつつ、うならざるをえない。「なーに、悪い冗談やで」。誰かにそう言ってもらえるほうがよほどましだ。それほどにひどい構図の選挙戦だった。

 共産vs.非共産。共産党支持の候補者に対し、共産党以外の自民、公明、維新、希望、立憲民主などの各党が対立候補を支持。国政では自民・公民の与党に対峙する野党が与党と同じ候補者を支持するという「とんでもない」構図ができあがったわけだ。公文書改ざんなど、国政が揺れに揺れ、その主因たる現政権に対し不信感を高める人たちは、いったいどこに投票すればいいのか。いろいろ目を瞑ってきたが、さすがにこれ以上政府の暴走を許してはいけない。 

 そんな危機感とともにようやく政治的関心をもった人たち(きっとその数は少なくなかったはずだ)の投票先が失われたまま、選挙が実施されてしまった。
 共産対非共産の対立構造など、1960〜70年代の話ではなかろうか。約半世紀前にできた枠組みだ。

 5歳児だって、2歳に履いていたときのシューズ(今は次男が使っている)を履かそうとすれば、「そんなん、はいるわけないやん」と即答するにちがいない。もし無理強いすれば、「おとうちゃん、だいじょうぶか? ほんまへんなおじさんやなぁ」と馬鹿にされ、罵られ、二度と口をきいてもらえなくなる、なんてことになりかねない。

 だけど、息子よ。きみやお父ちゃんたちが今生きている社会ってのは、そんな「へんなおじさん」たちが大勢、大手を振って生きているんだ。履けっこないシューズを「まあ、そういわず」「とりあえずまあ」とか言って履かそうとする。お父ちゃんのように、「あ、ごめんごめん、間違った」、次男坊のやったな、と言って、新しいシューズを持ち出してはくれないんだぞ。ねえ、だから、お父ちゃんのことを「へんなおじさん」と言わないでおくれ。

 府知事選の比喩として用いたはずの長男との会話が、長男にエクスキューズするという「へん」な妄想に発展(もしくは後退)したではないか。まあ、そうでもしないとやりきれない。政治という公共の舞台で繰り広げられるあまりの愚挙、愚行を前にしては、妄想に逃避するくらいは……。とミシマは自らをなぐさめてみるのであった。

 話を戻す。
「へん」なのは、なにも公共の場だけではない。足元に目を向ければ、ミシマが身をおく出版の世界も同様の事態が進行している。
「本が売れない」
「きびしい」
 書店からも出版社からも、一様に聞こえてくる声である。規模の大小は問わない。年々、この声は大きくなるばかり、聞く頻度も高まるばかりだ。「出版不況」の名の下に。

 だが、とミシマは思わないではいられない。

 どんどん本をつくって、流していけばいい。中央から地方へ、川上から川下へと水が流れるように流していけばいい―—。
 スマホ、ネット、双方向性のゲームはおろか、一家に一台のテレビさえ普及していなかった、いつかの時代(必然、読書のための「絶対時間」とでもいうべきものが多かった時代だ)にできた枠組みをいっさい変えることなく、「出版不況」と叫んでいるのではなかろうか? 
 だとすれば、それは、「へんなおじさん」たちによる「へん」な事態というほかあるまい。

 ある本が出て以降、世界が変質する。その本が出る前の思考には戻ることができない。一度知ってしまった以上、「知らなかった」世界へ後戻りができなくなる。そういう本がときおりある。
 平川克美さんが今年の1月に上梓された『21世紀の楕円幻想論』は、ミシマにとってそんな「後戻りできない」一冊となった。
 たとえば、先の府知事戦後、当選した府知事が喫緊の課題として「人口減少『問題』」を挙げたが、平川さんの見方はまるで違う。
 
   「人口減少の要因のうち、最も大きなものは、家族という共同体の変質ないしは、崩壊であると言いました。そういった意味では、人口減少は、経済発展の帰結としての家族共同体の変質であり、問題というよりは、一つの答えなのだろうと思います。             (p241−242)

 問題ではなく、答え。
 平川さんの指摘は核心をついている。
 問題ではないこと、つまり答えを「問題」とはき違え、問題にはなりえない「問題」を必死になって解こうとする。人口減少であれ、出版不況であれ、そういう事態が進行しているのではないだろうか。

 それは、5歳児には入りっこない小さなシューズを掲げ、「どうすればこのシューズが足に入るか、これは喫緊の問題です!」と叫ぶようなものだ。
 これは政治でもビジネスでもない。もはや「信仰」だと思う。

 人口減少という答えの結果、出版界もまた、「出版不況」という答えに直面せざるをえなくなった。人口増加、経済成長を前提として、あらゆる構造を設計し、それを維持してきたのだから、当然そうなる。
 だから、その答えをどうこうしようとするのは詮無いことだ。答え、なのだから。

 そうではなく、その答えを導いた前提に立ち戻り、問題を設定し直すことが必要だ。
 つまり、人口減少、高齢化、経済の低成長、そうした時代の答えを前提とした上で、どう本を届けていけばいいのか?
 こういう問いこそ必要だろう。

 ひとつのヒントが「手売り」にある。ミシマはそう思っている。
 昨年、一昨年と2年連続で、福岡から天草エアラインというかわいい小型機に乗って天草へ行った。その地で、「出張 ミシマ社の本屋さん」というブースを開いた。すると、4日間ほどの出店で、驚くほど本が売れた。目の前で、自社の本がどんどんどんどん売れていく。

 その現実を目の当たりにして、ミシマは思った。「ちゃーんと、本は求められている。問題は、欲しい人のところに、ちゃんと届くかたちで届いていないことだ」
 そもそも、本というのは少数派のための「媒介者(メディア)」なのだ。「ちいさな声」に応えるために、それはある。

 どんなに離れていても「親友」や「仲良し」のいる場所が「きんじよ」であるように、本の親友や仲良しがいるところにしっかり届けていけばいいのだ。できれば、それにふさわしいかたちややり方で(それぞれのお店ならではの「手売り」をする、とか)。
 
 平川さんは、言語というのは、「完全な言語マップや文法が先にあったわけではなく、音声によるコミュニケーションが先にあり、事後的に言語マップが出来上がってくる」と述べる。同じように、

  まず、社会関係があって、その社会関係を説明したり、維持したりするために、モラルが後からやってきた。(p58)

 この「モラル」をシステムやルール、あるいは枠組みと言い換えてみてもいいかもしれない(むろん、意味はまったく違う。ただ、発生過程を考える際に入れ替え可能ではある)。そして、「社会関係」を「読者との関係」へと変えてみる。すると、

  まず、読者との関係があって、その関係を説明したり、維持したりするために、枠組み、システムが後から

 「やってくる」。時代遅れの「へん」な枠組みを変えていく。そのためには、いきなり制度やシステムを刷新するのではなく、まずは冷静に現実を見つめなければいけない。では、その現実、つまり読者との関係はどうなっているのだろう? 
 天草で「手売り」体験をし、その数ヶ月後、大型書店内でも「手売り」させてもらった。どちらも、すごく届いた。そんな経験を経て、ミシマの直感はこうささやく。

 読者を消費者とみなす関係から、「きんじよ」な関係へ―—。
 義務やシステムではなく思いが先行する、「きんじよ」な関係。そこから始め直すのがいいんじゃなかろうか、と。

「ミシマ社の本屋さん」という出版社内にある手売りの場。そこから始まった、各地での「出張 ミシマ社の本屋さん」。そしてそうした場で体感した「きんじよ」な関係……。
 出版社、書店、読者の三つ巴で、「これからの関係(きんじよな関係)」を広げていこう。全国の本屋さんとともに、そうしていきたい。んじゃあ、いっそ、シリーズにしてしまおうか。

 というわけで、この5月22日から「手売りブックス」なるシリーズを始めることにした。
「届け方」をシリーズ名に冠する、世界初のシリーズである。ただし、「世界初」はマーケティングを一切しないミシマ社調べであることを付け加えておく。


※いしいしんじさん著『きんじよ』は、シリーズ手売りブックスの第一弾として5月22日(火)に刊行されます。

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かぞくのカタチ

三島邦弘
ミシマ社代表 編集者

1975年京都生まれ。京都大学文学部卒。2006年10月に東京・自由が丘に単身、株式会社ミシマ社設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、一冊入魂の出版活動に全国の書店員に支持者が多い。現在、京都市内にもオフィス兼「ミシマ社の本屋さん」(毎週金曜日のみ開店)を運営。著書に『計画と無計画のあいだ』(河出書房新社)、『失われた感覚を求めて』(朝日新聞出版)。 twitter:@mishimakunihiro

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