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かぞくのカタチ

家が職場、職場が家

三島邦弘

三島邦弘(ミシマ社代表 編集者)
今をときめく出版社「ミシマ社」のオフィスは会社というより家である。
なぜ「家」なのか? 家だと何が違うのか? へっぽこ代表兼編集者のコラム。

かぞくのカタチ

家が職場、職場が家

第17回 「それなり」を超えたくて――「ミシマ社以前」後編

 2006年初夏――。出版社をつくったらいいんだ。ある日の夜、そう気づいてからあらゆる扉が開いていった。というより、自分の周りに、これほどたくさんの扉があることを初めて知った。暗いからというだけで、探すことすらしてなかったのだ。すぐそこ、に扉はあったのに。

 しかし、その気づきがもしも「いま」であったら、どうするだろうか?
 ふと脳裏にもたげた疑問にミシマは、案外むずかしいかもな、と思ってしまう。
 その心内の声を聞いて筆者は、「そうですか?」と訊ねないではいられない。「むしろ、いまのほうが、ずいぶんやりやすいのでは? コミュニケーション環境がまったく違いますから」
 Facebook、twitterはじめ、SNS(ソーシャルネットワークサービス)華やかりし現代、ほんの少し嗜好が合う者同士が「つながる」ことになんの困難もない。

「出版社始めようと思うんです」
 ひとこと、こう書き込めば、「わー」「いいですね」「がんばって」「応援してます」、といったコメントは無数に、「知り合いに始めた人いるので紹介しますよ」的展開はもはや当然の起こりとして、「あ、僕も考えてました」「一緒にしませんか?」という流れもまんざら非現実的とは言えないだろう。

「それでも、むずかしい、ですか?」
 食いさがる筆者の問いに、いま一度思考を巡らせるミシマだが、答えはなかなか返ってこない。
 うーーーん。
 うなるばかりのミシマに、これは問いを変えるにしくはなし、と判断。 具体的な話を訊くことに変えた。
「2006年の初夏から、実際に会社登記をする2006年10月までの動きは、どうだったんですか?」
 この問いを耳にするや、ミシマの瞳孔がいくぶん開いた。ほどなく、脳内では、映像がくっきりとかたちをもって動き出した。

「出版社をつくったらいいんだ」と思いついた夜、同時に、いくつものアイデアが芋づる式にくっついてきた。そのひとつが、ウェブ雑誌の創刊だ。現在の「みんなのミシマガジン」の前身となる雑誌をたちあげることを思いついた。

 当時、出版社が運営するウェブ雑誌など、指で数えられるほどだったにちがいない。自社ホームページに「読み物」や「連載」を掲載することはあったとしても。それを雑誌と位置づけて、運営するような空気はまだなかった。自分たちの稼ぎ手である紙の雑誌を「殺す」ことになりかねないからだ。

 ひと一倍、紙の本で勝負をしていくつもりであったが、一方で、その紙の本を生かすには、ウェブ雑誌の存在が欠かせないと考えていた。と、こんなふうに言うと、さも先見の明があったかのように聞こえるかもしれないが、さすがにそこまでの自惚れはないつもりだ。

 実際は、切羽詰まった、最後の切り札的に発想した。つまり、お金がない、けれど、出版する本のことは知ってほしい(むろん広告費などいっさいない)。この一見相反する二つの条件をともに満たすには、運営コストが劇的にかからないメディアを自らもつほかないのではないか。
 ウェブ雑誌なら、印刷代などの原価をほぼまったくかけずに(タダでできるかも!)、世界中の人たちがアクセスできるし(何百万人の人が訪れるかも!)、そうすると、自社の本を知ってもらう機会に自然となる(広告費ゼロで!)。そんな淡くて甘い勘違いたっぷりの期待を抱きつつ、その実、選択肢ほかになしというなかで思いついたのが、ウェブ雑誌だったのだ。

 一度、思いついたら即行動。これができるのは、自惚れではなく、自分のいいところだと我ながら思う(行動が早いというより、待つことが苦手という言い方もできるが)。
 で、またたく間に、いろんなことが動き出し、数カ月後には雑誌創刊をはたした。
 ……と言えば華々しいが、はたしてあれをウェブ雑誌と呼ぶことができるかはあやしい。
 正確にいえば、ネット上に月に数度更新するホームページが存在しだした、というにすぎない。

 ともあれ、始まったのは紛れもない事実だ。
 その新雑誌は、『KYOTO的』と名づけられた。意味を説明しだすと、それだけで2000字は要るにちがいなく、ここではバッサリ割愛したい。ひとことだけ付言すると、よくわからない名前に惹かれた、ということに尽きる。

 さて。
 ウェブ雑誌をつくる、と思いついたとき、一番近くにいた友人(かつての会社の後輩)に声をかけたところ、すぐに乗り気で、参加してくれることになった。Facebookもない頃の話だ。mixiは存在していたものの、僕自身は使っていなかった。
 それでも、友人に直接声をかけたりしているうちに、誰かが誰かを連れてくるという連鎖が生じた。ウェブ雑誌たちあげを構想して数週間後には、社会人3名、学生4〜5名のメンバーが集まっていた。

 と、これだけを聞くと、シリコンバレーのスタートアップ物語のようだ。けれど、くりかえすが、月に数度更新があるか無いかの雑誌。それも、メンバーのうち、誰ひとりとして、プログラミングなどできやしない。簡単なホームページすら作ることができないのだ。集まった学生の大半は、「雑誌つくるなんて、なんだか面白そう」と思ってくれた人たちであり、あくまでも、軸足は「雑誌づくり」にあり、ウェブづくりにはなかった。

 結局、学生のひとりが、「今後のためにも覚えたい」と言って、勉強してくれた。
 そうして、創刊したものの、デザイン、プログラミング、ウェブ編集、そして告知、どの面を切りとっても、プロのウェブ雑誌と呼ぶにはお粗末であった。アクセスは、1日平均1〜3人といったところだっただろう。
 スモールスタートとは言うけれど、スモールにもほどがある。ベイビースタートの好例。なんてふうに、誰かが言ってくれたら、多少は救われるが。

 ただ、ひとつひとつの読みものとしては、わるくなかった(これは謙遜。本心は、かなり面白かった!)と思う。
 その後、ミシマ社で仕掛け屋を名乗ることになる木村桃子に会ったのも、実はこの雑誌を介してだ(「読む女」という連載を書いてくれた)。編集メンバーに加わってくれた友人が連れてきたのが、元書店員であったキムラだったのだ。そのキムラや、その後「ミシマガ」に「成長」したあとも書いてもらうことになった、アナウンサーの倉野麻里さんや、「コーヒーと一冊」シリーズでデビュー(怪作『声に出して読みづらいロシア人』の著者)した松樟太郎先生も『KYOTO的』が執筆デビューの場である。
 この夏ミシマ社から単行本『世界にスキマをつくるーー構築人類学からのアプローチ(仮)』を上梓する人類学者であり、私の親友でもある松村圭一郎氏も、ここに寄稿してくれた(今回の本は、そこに書かれたものとミシマガに連載されたものをベースにしている)。

 その意味では、ミシマ社という法人が実体としてはおろか登記上にも存在してなかったこの頃、現在のミシマ社につながる「種まき」が確かにされていた。ということに、今さらながら気づく。当時は、ただひたすら、面白そう!と思う気持ちしかなかったのだが。そして、むろん、というか、必要に迫られることがあまりになく、アクセス数を気にすることなどまったくなかった。

 それでも、「紙の雑誌をウェブ上で展開するというまったく新しい発想で始められた、ほんとの意味で新時代の雑誌ができたのではないか!?」というかなりの独善的思い込みとともに、確かな充実感を得ていた。
ミシマ社が存在し出す、ほんの数カ月後前のことだ。

 ミシマの脳内によぎった言葉をざっとスキャンし、描写してみた。心なしか、微笑んでいるように見えなくもない。懐かしさがそうさせるのか。
 しばらく、その状態がつづいたが、はっと我に返ったようにミシマの表情が再び締まった。先の問いを思い出したのだろう。

 もし、いまミシマ社をつくっていたとしたら?
 そう問われてすぐに、案外難しいかもな、と直感で思ってしまった理由がおぼろげながら輪郭を帯びてきた。

 まず第一に、 ウェブ雑誌を発想しただろうか、と考えないではいられない。
 今くらいネットツールが充実していたら、ウェブ雑誌を創刊する必要性を感じただろうか。もっと簡単に、もっとそれなりの見栄えで、必要性な情報を提供できる。それによって、広告的効果も可能となる。手伝ってくれる人たちだって、もっと簡単に集まったことだろう。 リアルでの口コミなんかじゃなく。
 そうすると、先に「種まき」と感じたような行為はおこなわれていただろうか。それを支える人たちとの出会いはあっただろうか。
 もちろん、仮になかったとしても、その場合、ちがう人たちとの出会いがあっただろうし、ちがう展開が待っていただろう。それは間違いない。

 けれど、とどうしても思ってしまう。
 けれど、それだとかえって、小さくまとまってしまうことにならなかっただろうか。
 あまりにするすると事が運んでしまう。「それなり」のものが安易にスピーディにできてしまう。その結果、「それなり」でできてしまう範囲のもの・ことで満足してしまう危険性がある。その癖がついてしまっていたのではないか。
 と思わないではいられない。そうすると、どうしても、案外難しいかも、という言葉が出てきてしまうのだ。
 なぜなら、ミシマがやろうとしているのは一貫して、「出版社」だからだ。

 もちろん、出版社とはこれこれを満たすものを言う、という定義があるわけではない。そのあり方は百人百様であってしかるべきであり、そうであるからこそ出版活動は面白くなる、とミシマは考えている。
 だからこそ、自分にとって出版社とは何か? という問いが重要になるのだ。
 いま、出版社をつくるなら? という問いによって、あらためてこの本質的問いに向き合わざるをえない。

 自分にとって出版社とは何か?
 ――抽象的な言い方をすれば、「よくわからない世界への媒介者」となるだろう。
 自分も読者も書き手も知らない未知なるところへ。出版社というものが媒介しないかぎり、見えることのなかったであろう景色が、「出版社」から出る本やその周辺の活動を介したとたん、見えてくる。それは、あるときには、部数というわかりやすいかたちをとることもあれば、部数でははかりしれない不可視のものというかたちで見えることもある――

 いずれにせよ、そうしたことを常に可能にしつづけること、そのためには、可能なかぎり、「予定調和」であってはいけない。出版社側の自己満足であってはいけない。とミシマは考えている。つまり、それなり、でまとまってよしとしてはいけないと思っている。出版社の納得は、書き手と読み手の満足が得られたあとにしか訪れないのだから。

 最初から、「こんなもん」「それなり」の域を出ないことがわかっている予定調和な環境で、「こんなもん」「それなり」を超える作品が生まれるだろうか。読み手のほうも、そこにわくわくしたものを感じるだろうか。
 ベイビースタートであるということは、その後の可能性がすさまじくある、ということでもある。もちろんそのまま、ということだってありうる。けれど、モンスターになることだってあれば、「モン」をとってスターにだってならないとはかぎらない。いずれにせよ、可能性だけはすさまじくあるのだ。
 ところが、最初からある一定レベルを越した「それなり」から始まってしまうと、「それなり」の域を超えるのが、難しくなりかねない。

 旅とパッケージツアーの違いを思い起こせばいい。パッケージツアーで連れられて行って見た名所で満足するか、たとえ名所にたどり着かなくとも自分の五感だけを頼りに自分だけの場所を見つけようとするか。
 今のように「それなり」を最初から提供してくれるネット環境は、パッケージツアーみたいなものだ。翻って、自分がやりたいと思っている出版社は、旅、それも、地図も持たないひとり旅である。「それなり」は旅人が求めるものではない。
 というミシマの心の叫びが、手に取るように響いてくる。

 では、それほど「それなり」に収まることが容易な現代において、出版社をおこなう可能性はどこにあるのだろう?

 しばし、沈思黙考。
 …………。
 1分、2分、3分……5分が経ち、10分が経過し、30分が経過した。もしや、このまま眠ったのでは、と不安に感じた。そのとき! 突如、ミシマの目の奥にめらめらと炎が燃えだした。
いったい何が見えたというのだ。ついに可能性を見出したのか。
というか、その炎ははたして可能性なのだろうか。もしかすると、考えすぎて「腹減った」ために発せれた身体シグナルにすぎないのではないか。
 はて。さて。いかに。

 次回、目の奥の炎に飛び込んでみたい。無事、生還できたらレポートすることをお約束する。願わくば、これからの時代を見通す視点のひとつやふたつでも拾ってきたいものだ。
 まあ、それもこれもまったくの未知である。ただし、いま、ひとつだけ確かなことがある。それは、筆者のお腹が減っているということだ。もう、ずいぶん腹ペコとなって久しい。腹が減っては戦も執筆もできぬ。さ、麻婆茄子丼を食べるとしよう。

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かぞくのカタチ

三島邦弘
ミシマ社代表 編集者

1975年京都生まれ。京都大学文学部卒。2006年10月に東京・自由が丘に単身、株式会社ミシマ社設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、一冊入魂の出版活動に全国の書店員に支持者が多い。現在、京都市内にもオフィス兼「ミシマ社の本屋さん」(毎週金曜日のみ開店)を運営。著書に『計画と無計画のあいだ』(河出書房新社)、『失われた感覚を求めて』(朝日新聞出版)。 twitter:@mishimakunihiro

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