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かぞくのカタチ

家が職場、職場が家

三島邦弘

三島邦弘(ミシマ社代表 編集者)
今をときめく出版社「ミシマ社」のオフィスは会社というより家である。
なぜ「家」なのか? 家だと何が違うのか? へっぽこ代表兼編集者のコラム。

かぞくのカタチ

家が職場、職場が家

第19回 旅する小説と「食堂」の記憶

「新井田千一です」
 これがその小説の始まりだった。
「新井田千一です。私の実家は池袋駅から西武池袋線で下って行って埼玉に入ったあたりで、幼少期から二十歳までそこで過ごした」
 これがその小説の冒頭だった。

 この二文を読んだ時点ですでに、おや、という感覚が内から生じ始めていた。「です。」の直後からつづく文語体。
「新井田千一です。私の実家は池袋駅から西武池袋線で下って行って埼玉に入ったあたりで、幼少期から二十歳までそこで過ごした。池袋から西武線で下って、という言い方は、実家からも西武線の沿線から離れて久しい今現在になってからの言い方で、かつては西武池袋線を上って池袋に出る感覚だった」

 おや、おや? ふしぎな違和感をのっけからおぼえた。
 この、おや? をあえて視覚化してみたいと思う(なぜ、と言われても、視覚化されて感じられたのだからしかたがない)。
 本書は、「かたばみ荘」という古アパートが舞台になっている。このかたばみ荘に私が訪れた、という体で視覚化を試みると、「新井田千一です。」が、ここはかたばみ荘です、という宣言になるだろう。そのあと、私は当然のように階段を一段ずつ上ることになる。どの部屋にはいるかはあまり考えずに。

 階段を一段上ったところで、おや、と感じ、二段登ると、おや、おや、と感じた。きっと、上った階段のスキマから、何かがにょきっと顔を出したにちがいない。たとえば、もぐら、とか。けれど、その存在ははっきりとは見えず、おや、という感覚だけが残る。以降、なにかしらもぐらか何か生き物の気配を感じながら、このアパートへ踏み込むことになる。
  
 とまぁ、こんなふうに視覚化を試みている段階で、すっかりこの作品に襟首をつかまれているわけだ。そして、そのまま襟首をつかまれたまま、読むことになる。そんな予感はあったのだが、早々に、その予想は覆される。

 小説が始まって2ページ目。本書の舞台であるかたばみ荘は、西武池袋線の東長崎が最寄り駅であることが判明するのだ。
 な、なんと。
 と驚く人は少ないかもしれない。が、私にとっては大地震級の衝撃だった。

 なぜなら、東長崎は、私にとって、東京の原点の地。1999年4月から2005年春まで6年間住んだ町だ。二年目からは同じ東長崎駅の南口から北口へと引っ越したほど、その町になじんでいた。それも、引っ越した先は、かたばみ荘にはかなわぬものの、じゃり道の一角にある木造のぼろアパートだった。新井田千一さんがかたばみ荘に住んでいたのは、2001年春から2005年秋までなので、まる4年間、同じ町の住民だったことになる。

 襟首をつかまれたと思ったわが身体は、ふわりと宙を舞い、きれいな弧を描いて、畳に叩きつけられた。一本!

 三島邦弘です。僕が「失踪」したのは、かたばみ荘(仮)に住んで3年経った頃だった。むろん、失踪という言葉には語弊がある。
 新井田千一さんの後任として同じ部屋に引っ越してきた片川三郎さんは「失踪」してしまうわけだけど、それは残されたほうからの見方にすぎない。片川さんがはたして失踪してやろうと思ってしたのか。と問えば、おそらくNOであるように、僕もまた失踪するつもりなど微塵もなかった。

 2003年の夏。会社を辞めた僕は、芭蕉さながらの気分で出立する。ちょっと俗世を離れて、感じるままに歩いてみよう。そんな気分で旅に出た。
 行き先は東欧だった。なぜそこだったかはわからない。今から思えば、人が世捨て感覚をもつとき、自然と北へと進路をとるのだろう。
 当時、意識的に、「旅人」を名乗るようにした。
 理由はいくつかあるが、大きな理由のひとつに、旅人奪還という使命を背負っていたのは間違いない。
 
 現に、「旅に出るんです」というと、10人のうち2、3人からは、「自分探しですか?」と聞かれた。
 冗談じゃない。自分なんか探すものか。俺は旅に出たいから出るだけだ。
 そんな心の叫びを抑えて、「いえ、そういうわけじゃないんです」と返答するのが精一杯だった。それほどに、あの頃すでに、「旅=自分探し」という硬直化した見方が蔓延していた。

 どうして山に登るのか。と訊かれた登山家は、「そこに山があるから」と答えたように、旅に出る理由など、ありゃしないのだ。旅に出よう。と突き動かされたとき、旅に出るのであって、どこかにあるだろう「自分」を探したり、求めたり、時に見捨てたりしていては、結局「自分探し」パッケージツアーに参加したのと同じじゃないか。俺はいっさいの予定を白紙にして、旅に出る。訪問国も、宿泊場所も決めず。目的? もちろんなし。

 あわよくば旅=自分探しの固定観念を、世間から奪い取ってやる、と血気盛んな出立であった。
 ……わけだが、そんな思いもむなしく、3年後の2006年7月、ただの旅好きな旅人たちから完全に旅が奪われてしまう。あるスポーツ選手のひとことによって。
 “新たな自分”探しの旅に出たい。といって旅人になることを宣言し、スポーツ選手を引退。
 その突然の引退と理由の突拍子のなさに、時代の空気は完全に射抜かれてしまう。さながら事件のようなインパクトをもって。「自分探しに旅に出る」。まるで百人一首を詠みあげるかのように響きをともなって、一般化してしまった。
 以来、純粋に旅を楽しむものたちの聖地が失われることとなる。
 まあ、もっとも2003年の僕の旅が、旅人奪還にすこしでも寄与したかは大変あやしいのだけど。

 アエロフロート、モスクワ経由で降り立った地は、ポーランド・ワルシャワだった。
 ワルシャワの宿の記憶は驚くほど消失している。その後のクラクフの大学寮やプラハで滞在したふたつの宿、ウィーンのユースホステルの居心地の悪さ、ブラチスラバのみじめな安宿、ブタペストの男女同部屋のドミトリー、トルコの各地の宿は、どこもすべて、空気感までも一緒に覚えているというのに。

 久しぶりの海外。それも初の東欧。そのスタートを切った地ゆえに、極度に緊張していたのだろうか。だから記憶がないのか。
 ワルシャワでの記憶をつつくと、宿に代わってすぐに出てくるのはこうした断片だ。
 旧市街へ行く。教会へ行く。そのあちこちに、露天の花屋があった。
 それを見て、当時ブログはなかったため、ネットにこんな感想を記している。
「ポーランドの人たちは、お花が大好き」
 なーーんちゅう、ぬるいこと言うてまんねん。
 いったい、どの面下げて書いたのか。タイムマシーンがあれば、その時の自分に容赦なく三沢エルボーの一発や二発入れたいところだ。

 宿は覚えていないくせに、宿近くの客の少ない小さな食堂のことはよく覚えている。そこは小さな娘さんを連れた、往年を想像しないではいられないポーランド美人のおかみさんがやっている食堂だった。滞在一週間ほどのあいだに数回は通った。というのも、美味しかったのだ。そのときに食べたコトレト スハヴォーイというカツレツの味は忘れられない。

 ただ、通った理由はそれだけじゃない。美人おかみさんは、かつて日本に住んでいたのだ。片言の英語ではにかみながらそう話してくれたとき、彼女は僕にとって、旅先でたまたま入ったレストランのウェイトレスではなくなった。その瞬間、おかみさん、となった。いったい日本にはどれくらいいたのか? なんの仕事をしていたのか? ときどき笑ってくれるが、口元に悲しみが帯びているのは気のせいだろうか? 彼女の表情に見え隠れする影に、ポーランドという国のもつ悲哀を重ねたりした。
 まったく失礼な話だ。個人と国家をかんたんに、単純に重ねるなよ! と再び三沢エルボーが飛んでくるところだ。

 いずれせによ、このような記憶ばかりがワルシャワにはある。
 早い話、ホームシックだったな、あれは。
 ところでホームシックとは何か。
 ふといま思ったのだが、案外、僕の場合、食堂に対する郷愁ではないか。
 そうだ、俺は食堂が昔から好きだ。東長崎が好きだった理由のひとつに食堂の多さがある。行きつけは3、4軒あった。Sのアジフライ定食は6年間のうちに300回は口にしたのではなかろうか。Tでは、そういや、さんま定食を食べたな。で、さんまの身を食べると、当然骨が出てくるわけで、その骨を炙って食べるのが好物なんだなぁ。これは父譲り。で、骨を見た俺は無性に焼きたくなった。骨を、だ。それで勇気をふりしぼって、「骨焼いてください」。と言えばよかったのだが、それができなかった。そこまでの行きつけではなかったのだ。だけど、食いたい。
 
 その欲望に抗うことのできなかった俺はティッシュに包んでジャンパーのポケットに入れたのだった。もちろんおじさん、おばさんの目を盗んで。けど会計のとき、おじさんがにっと笑った気がしたんだよな。つうか、そんなんバレバレに決まってるわけで。皿の上に骨がのってないんだから。

 かたばみ荘(仮)の部屋に戻った俺は、ジャンパーのポケットから骨を出した。ジャンパーのポケットはベトベトに脂まみれになっていた。以来、ジャンパーの右ポケットは、脂のシミが浮かびあがりつづけることになる。骨にはティッシュがくっついていた。それでも俺は焼いて食った。こびりついたティッシュをむしりながら。ポリポリ。いつもはあの食感がたまらないのだが、この日の骨の味はまったく覚えていない。
 ……つうかなんでこんな話してんのだ、俺。

 結局、いろいろ旅した挙句、イスタンブールからモスクワ経由で数ヶ月ぶりにかたばみ荘(仮)に戻ってきた。
 はあ、とため息ついていると、携帯電話が鳴った。
 出ると、不動産屋のにいちゃんだった。
「ちょっと! どこ行ってたんですか? 失踪したかと思ってましたよ!」

『高架線』(講談社)を読んでいたら、久しく忘れていたこうした記憶がよみがえってきた。
 ここに住む人たちが、思い出を掘り起こしながら語るように、私もまたかたばみ荘の住人になったような感覚に浸っていたのだろう。
 そればかりか、ほんとうにそこに住んでいたような気さえしてくる。
 すくなくとも、著者の滝口悠生(ゆうしょう)さんが実際に東長崎にいてここに住んでいたとは思えないが、この小説内において同居できたような気がしている。いや、小説内において、ではない。恐れ多くも、今も同じ住人であるような感覚をたしかに覚えた。

 かたばみ荘の階段を上ると、もぐらか何か、生物の気配を感じた。
 視覚化してみると、そう感じたと先に述べた。つまりは、古い建築物のなかに「新しい生命」を感じた。
 現在の建築基準だとか意匠の流行とか、そういった既存の枠組みに収まろうとしていない。ちょっとこれまでになかった建造物なんです、ここは。と畳に叩きつけられた私に、語りかけてくるようだった。

 恐れ多くも著者と同じ住人と感じたのは、そうそう! とかたばみ荘にいるあいだ、ずっと我が意を得たりの思いがあったのだ。これまでにない雑誌を、と『ちゃぶ台』を立ち上げたり、そもそも出版社をつくったのだってそうだ。自分たちの時代の出版社を、これからの時代をともに生きていく出版社を。そんな思いがどこかにあった。

 おそらく、著者がかたばみ荘という建造物を舞台にしたのは、自身が小説という舞台でおこなおうとしていることを託したからではなかろうか。古くてなつかしい建物、つまり書籍というものを使って、新しい生命を生み出していく。
 もしそうだとすれば、『高架線』ではそれが恐ろしいほど見事に成功していることに感嘆せざるをえない。

 もちろんこれは私の深読み、あるいは思い込みにすぎないかもしれない。
 けれど、きれいな背負い投げをされた心地よさは実感とともにあり、はっきりと、こう感じることができた。

 かたばみ荘は、西武線の東長崎駅の近くにある。だけど、その住人には西武線に乗ったことのない人はおろか、東長崎という地名すら知らない人たちだっている。日本の離島にも新宿のど真ん中にも、アフリカにもヨーロッパにもアジアにもアメリカにも世界中のどこにだって、いる。
 そんなふうに感じた体験だった。それはまた、誰にも自分探しでしょ、と言われることのない極上の旅でもあった。

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かぞくのカタチ

三島邦弘
ミシマ社代表 編集者

1975年京都生まれ。京都大学文学部卒。2006年10月に東京・自由が丘に単身、株式会社ミシマ社設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、一冊入魂の出版活動に全国の書店員に支持者が多い。現在、京都市内にもオフィス兼「ミシマ社の本屋さん」(毎週金曜日のみ開店)を運営。著書に『計画と無計画のあいだ』(河出書房新社)、『失われた感覚を求めて』(朝日新聞出版)。 twitter:@mishimakunihiro

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