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いごごちのカタチ

平川克美の“住めば都落ち”

平川克美

平川克美(立教大学大学院特任教授)
人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。
50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

いごごちのカタチ

平川克美の“住めば都落ち”

第22回 路地裏映画館④生涯の一本

そんなの無理
 人生を85歳で終えるとして、1年365日で計算すれば3万日とちょっと。でも、そのうち3分の1は寝ているわけで、覚醒して過ごせる日々は2万日分しかない。わたしは67歳なのであと18年で寿命が尽きる(90歳までは生きていたい気もするが、それには運が必要になるだろう)。そうすると覚醒しているのは4千日とちょっとである。
 随分少ない感じがする。

 わたしの財布には常時、2万円ほど入っているが、2万円なんてあっという間になくなってしまう。4,000円といえば、数日の晩飯で消えてしまう。
 残された日々をカウントしていると、せいぜい、旨いものを食べて、おいしいお酒を飲んで、楽しい映画を観て、愉快に過ごしたいと思うのも当然だろうし、そのために働いてさらに享楽の時間を縮めるなんてまっぴらだという気持ちにもなる。
 こういうのを、快楽主義者と言う。とすれば、快楽主義者は悲観論者でもあるということである。

 まあ、実際にはそんなことはなくて、結構真面目に働いて、常識的な日々を送っているわけだが、還暦を跨ぎ越して数年もすれば、やはり残りの日数を数えるようになる。
 残された日々がとても貴重なものに思えてくるのと同時に、あまり、みっともない死に方はしたくはないとも思う。遺族に迷惑もかけたくない。それで、少しずつ死に支度を始めようということになる。
 壁際をびっしりと埋め尽くしている本の山は、俺が死んだらただの厄介ものになるだけだろうから、早いところ処分しよう。押し入れに詰め込んである、使えなくなった電気製品やがらくたも、少しずつ減らしていって、最後には空身であちらへ行こう。

 ところが、実際には、考えているだけで一向に、実行が伴わない。
面倒くさいのである。貴重な日々を前にして、すべてが面倒くさくなるというのも不思議なものである。
 足が動くうちに、毎月1回は気の置けない仲間と温泉にでも行こうと決めている。温泉には、必ずDVDを1本持参する。温泉と映画。これがわたしにとっての究極の贅沢になった。

 何本かの映画は、あちらの世界へ持っていって、先に行ったおっかさんや、親父や、友人の菅野くんや、内田くんの兄ちゃんと、鑑賞会でもやりたいような気もする。温泉に持っていく映画は、適当に面白そうなものを鞄に放り込むのだが、あちらの世界へ何を持っていくのかと考えると、すこしばかり慎重になる。
 というわけで、このところ、生涯の一本というのを考えているわけだが、これがなかなか思い浮かばないのである。いや、候補は次から次へと出てくるのだが、一本に絞ることは到底できそうもない。

 わたしにとって、最初の洋画の衝撃は、『ウエスト・サイド物語』であった。この映画、何回観たかわからないほどである。わたしの年代の爺さんたちは、この映画の主人公であるジョージ・チャキリスにしびれまくって、しばらくはかれのトレードマークである紫色のシャツを着た兄ちゃんが町中を闊歩していた。

 この映画は、ストーリー自体は、ロミオとジュリエットを現代に翻案したありふれたものだったが(プロットはさすがシェイクスピアと思わせてくれる傑作です)、何しろミュージカルというものを初めて観た東京場末の中高生には、ココイチの十倍激辛カレーを食ったほどの衝撃があった。映画の冒頭、マンハッタンの上空からカメラが街の一角の公園に接近し、そこに指パッチンをしながら、チャキリスたちが登場する。そして、いきなり足を高く上げて踊りだす。確かに、こういう文化はわたしたちには皆無だったわけで、それだけで鳥肌がたち、目が点になった。

 二度目の衝撃は1973年だった。何かの用事があって(そちらのほうはすっかり忘れている)、有楽町を歩いていたときに、その映画の看板が目に入ってきた。劇場のドアを開けると、すでに映画は始まっていた。舞台は香港。大きな川に沢山のだるま船が行きかう。だるま船には世界各地から集まってきた武術家たちが乗船している。香港の裏社会を牛耳るおっさんが主催する世界武術トーナメントに出場するためである。
 わたしが観たのはいうまでもなく『燃えよドラゴン』。この映画を封切り劇場で観ることができたのは、僥倖であった。この映画には、驚くような場面が満載されていた。何より驚かされたのは、ブルース・リーが発する、怪鳥のような奇声であった。アチョ、アチョ、アチョ、アチョー。
 これには、度肝を抜かれた。

 三度目はなんだったんだろう。『エイリアン』『ジョーズ』『ロッキー』など、それぞれ見ごたえのある映画であったが、上に挙げた二作ほどの「口あんぐり」感はなかったように思う。
 こうして挙げていくと、何だ、お前の生涯の一本てのは、娯楽映画ばっかりじゃないかと思われるかもしれない。そんなことは、無いんですよ。カズオ・イシグロ原作の『日の名残り』とか、ジェーン・オースティン原作の『いつか晴れた日に』といった文芸作品のリストも頭の中にはあるのです。でも、やはり映画は、娯楽の王様のような気がする。

 ひとりっきりで、暗い部屋で、未知の体験に浸りきるなんていう機会は他にはちょっと見当たらない。もちろん、音楽も、絵画も、バレエもそれぞれ素晴らしいところがあるが、やはり映画の気安さ、路地裏的快楽には及ばないように思う。

 以前、新聞のコラムで、哲学者の木田元が、「生涯の一本」として『心の旅路』を挙げていた。早速見て、これはすごいと思ったし、木田元が何故この映画を「生涯の一本」と言ったのかが分るような気もした。この映画には、単なる娯楽とは違う、何か人生の秘密のようなものが解き明かされているような気持にさせるものがある。得てして、そういう理屈が入ると、映画は妙に力こぶが入ってしまい、面白さに欠けてしまうきらいがあるのだが、この作品に限っては、映画のラストシーンが象徴するように、すべてのピースが、一本の鍵で繋がってしまうという凄みを感じる。忘れてしまった記憶とは何か。それが、この映画のテーマであった。

 敬愛する大瀧詠一さんの奥様が、この映画を観て、「こういう映画が観たかったのよ」とおっしゃっていたそうである。大瀧さんは、何度目かなのだが、それでも初見では見逃していた重要なシーンがあって、ご自分でも「一体何を観ていたのか」と述懐されていた。

 御託はわかった、それで、お前の「生涯の一本」とは何なのかと問われそうだが、もうお分かりのように、とてもじゃないが、絞れない。逆に言えば、『心の旅路』を超えるような、硬軟併せ持った完璧な映画というものに、まだ巡り合っていないということなのかもしれない。まあ、大好きな映画ということなら、ラッセ・ハルストレム監督の『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』あたりの名前を挙げておきたい。自分の個人的な体験もあって、この映画は忘れがたいものになっている。

ラストの10分
 映画と言えば、やはりオープニングとラストの10分が勝負の分かれ目を決定するような気がする。B級映画は特にそうである。
 007シリーズのオープニングは誰もが記憶している。
 映画の味にとってさらに重要なのはラスト10分。泣ける映画の場合のラストは特に重要である。ここで外されると、流した涙の持っていきようがなくなる。なにより、記憶に残るかどうかがここで決まる。

 映画の良し悪しを判断するには、細かいプロットについての分析的な思考が必要なのだが、あまりに沢山の映画を観ているので、良かったとか面白くなかったとか大雑把な印象は語れるのだが、そこで話が終わってしまう。うろ覚えなのである。町山智弘さんのせめて十分の一の記憶力があればと、いつも恨めしく思っている。

 最近、ふとしたきっかけがあって観ることになった『オーケストラ!』のラストは、圧巻であった。落ちぶれたロシアの楽団員が起死回生の演奏を、パリのシャトレ座で演奏する。曲目は、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。ソリストは、人気のアンヌ=マリー・ジャケ(映画の役名ですよ)。なんとこの映画では、長い第一楽章の最初から終わりまで通しで演奏させている。
 映画自体も最高のB級映画といった趣で、楽しめたのだが、このシーンだけは、それまでのドタバタや通俗的なストーリーのすべてを、昇華させてしまう。その多くの部分は、まさにチャイコフスキーの曲そのものによっているのだけど、ちょっと類例がないほど美しいシーンが連続する。

 わたしは、映画を観終わったのちに、ただちに巻き戻して、このシーンを見直した。先日は、映画鑑賞会をわが書斎でやったのだが、参加者は、年来の友人で会社社長の駒場くんだけであった。映画を観終わった後、「どうよ」「いいなあ」「で、もう一回最後のシーン観る?」ということに相成った。
 ひょっとすると、この映画は、B級部門、生涯の一本に入れてもいいかもしれない。

 と書いたら、ちょっと待てという声が聞こえてきた。もちろん、わたしの心の叫びである。
 じゃあ、『湯を沸かすほどの熱い愛』はどうするんだよ。『ドラゴン・タトゥーの女』は? 『遠い空の向こうに(オクトーバースカイ)』は? 『特捜部Q 檻の中の女』は?

 ああ、B級映画ベストワンも結局選べない。
 ラストシーンと言うことだけに限定するなら、以前このコラムでご紹介した、イ・チャンドン監督の名をあげておきたい。『オアシス』にせよ、『シークレット・サンシャイン』にせよ、主人公たちのドン詰まりの、絶望的な状況は、何にも変わらないのに、何か、向日的な視線の感じられる場面で終わるのである。もし、これらの映画が15分早く終わっていたら、二度と観たいとは思わないだろう。
 わたしは、両作品とも、三度以上観ることになった。ラストの5分がわたしを呼び戻すのである

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平川克美
立教大学大学院特任教授

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。現在、株式会社リナックスカフェと株式会社ラジオカフェで代表取締役をつとめる。立教大学大学院ビジネスデザイン研究科特任教授。著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書y)、『株式会社という病』(文春文庫)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(筑摩書房)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)、『俺に似たひと』(医学書院)、『「消費」をやめる~銭湯経済のすすめ』(ミシマ社)、『路地裏の資本主義』(角川SSC新書)など。最新刊は『「移行期的混乱」以後——家族の崩壊と再生』(晶文社)

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