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いごごちのカタチ

平川克美の“住めば都落ち”

平川克美

平川克美(立教大学大学院特任教授)
人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。
50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

いごごちのカタチ

平川克美の“住めば都落ち”

第20回 路地裏映画館②『オアシス』が開示した世界の裂け目

予定調和

 学生の頃、よく新宿昭和館にやくざ映画を観に行った。
 わたしの席の前には角刈り、皮ジャンの兄さんが座っていた。
 映画が終わったとき、その兄さんが立ち上がり、出口まで歩いている姿には、今さっきまでスクリーン上にいた、高倉健が憑依していた。

『昭和残侠伝』における、最後の殴り込み、堪忍袋の緒の切れ目、ひとり死地へと乗り込んでいくときのヒーローに、完璧に自己同一化していたのである。
 映画では、この後、血みどろの斬り合いとなるのだが、あの兄さんが向かった先は、映画館の出口であり、その先にあるのはネオンまばゆい繁華街なのである。

 そこにあるのは、変わり映えのしない日常であり、義理も人情も廃れた欺瞞と欲得の支配する世知辛い渡世である。
 寒空に襟を立て、あんなに肩に力をいれちゃって、あの兄さん、これからどうするんだろうか。

 かれにとっても、わたしにとっても、映画は仮想現実であり、映画館の暗闇にライトが点灯され、通路後ろのドアが開き、町に歩き出すまでの数秒間のあいだに、この仮想現実は、もう少し輪郭のくっきりとしたありのままの現実へ転轍されることになる。

 この仮想から、ありのままの現実への転換は、大体の場合、うまくいく。
 だからこそ、ひとは安心して映画館の暗闇のなかで、想像をめぐらせることができるのだ。
 この場合、 映画は夢を夢と知りつつ見る夢に似ているかもしれない。
 仮想から現実への転換がうまくいかない場合もある。
 その場合、おおくのひとは、仮想の中の幻影を、現実の生活のなかでも引きずることになる。映画の中の女性の面影が、忘れられなくなる場合もある。
 映画の中の恐怖がいつまでも立ち去ってくれないときもある。
 突然芽生えた嫉妬心や慚愧の念が消え去らないこともある。
 それでも、やがて、幻影はその影を薄めて次第に忘れ去られることになるだろう。

 ときおり、幻影のリアリティのほうが強くなって、現実の方の影が薄くなってしまうようなことが起きる。映画の方に真実性があり、この渡世の方はどうも信用が置けないといった気持ちになる。そうなると、映画を観た後、わたしたちは、これまで慣れ親しんでいた現実の方を修正しなければならなくなる。
 映画作家にとって、それこそが光栄と呼ぶべきものであるに違いない。

予定調和

 かつて、柳家小ゑん師匠が「お客ってえのはストーリーを追うもんだ」と言ったことがあった。当たり前じゃないかと思ったのだが、師匠の言葉の真意はどうやら、お客が先まわりして噺家を追い越してしまう、ということらしい。 
 確かに落語のような同じ噺を何度も聴いている客にとっては、噺の筋は見えている。だから噺を聴く前にストーリーを追いかける。噺家はその後をついていくなんてことが起きるのかも知れない。

 いや、たとえ初めて聴く話であっても、初めて観る映画であっても、わたしたちは作り手を追い越してストーリーを追っていることがしばしばある。
 映画が、その通りに進行すればわたしたちは、少しだけ安心するかも知れない。
 これこそ、予定調和である。その意味では『昭和残侠伝』は、頭からお尻まで予定調和の映画であった。話の中身はとんでもなく破天荒であり、血しぶきが飛び散ったとしても、予定調和は予定調和なのである。
 わたしたちは、話の結末をすでに知っているのだ。

 こんなことを書いてきたのは、およそ予定調和の対極にある映画について書いてみたかったからである。その映画とは、2002年公開のイ・チャンドン監督作品『オアシス』のことである。観客は、映画が始まるや否や、普通では味わうことのない、ざらついた予定不調和の世界に引きずりこまれることになるだろう。

 イ・チャンドンというフィルムメーカーが、予定調和的な映画監督ではないことは、先に、2007年のカンヌ国際映画祭で主演女優賞(チョン・ドヨン)を受賞した『シークレット・サンシャイン』を観ていたので、ある程度の予備知識はあった。

 あの映画でも、最初は親子もののロードムービーなのかしらと思って、ポップコーンを頬張りながら観ていたのだ。
 しかし、途中から様子がおかしくなり、予想不可能な悲劇的な展開を見せられることになった。こちらが油断をしていた分だけ、度肝を抜かれることになったのである。

 この映画より5年前に作られた『オアシス』は、その衝撃力、破壊力、ストーリー展開の意外さにおいて、映画史に残る作品であるに違いない。とはいえ、わたしはこのような作品が存在していることすら知らなかったのであり、このところの韓国映画の目覚ましい活躍がなければ、見逃していたままだったかもしれなかった。

 この作品が、独特の文体を持っていることは、そのタイトルロールから明らかだ。
 壁にゆらゆらと揺らめく光が映し出される。
 壁には一枚のタピストリーが掛かっている。
 薄暗い路地裏の雑貨屋の商品棚で埃をかぶっていたタピストリーのような、二級品である。
 屋外から犬の鳴き声と、風の音が聞こえてくる。
 窓から入り込む光が、揺れる小枝の影を絵の上に映し出している。
 タピストリーには、不思議な絵柄が浮かび上がっている。
 絵柄は、ゴーギャンの描いた、タヒチの光景のようでもあり、アフリカの砂漠のようでもある。そこにあるのは、泉、椰子の木、黒人のこども、半裸の女性、ゾウ。
 絵には、“OASIS”という文字が見える。

 お話は、ひき逃げで2年6か月の刑期を終えて出所した若者ジョンドゥ(ソル・ギョングが好演)が、被害者の息子夫婦を訪ねるところからはじまる。
 ジョンドゥはつねに、洟をすすっている。おそらくは、刑務所暮らしで、栄養不足に陥っているのだろう。行動は粗野で、どこかなげやりである。あるいは、どこかに軽い障害があるのかもしれない。

 ジョンドゥがひき逃げした被害者の息子には、脳性麻痺の妹コンジュ(ムン・ソリが驚くべき演技)がおり、重篤な障害を持つコンジュの存在が息子夫婦の重荷になっている。
 娘は全身が硬直し、ひきつっており、その指は虚空をひっかくように痛苦を訴えている。
 兄夫婦は、脳性麻痺の妹に支給される障がい者向けマンションに暮らして、妹のコンジュを安アパートの一室に置き去りにして、ときどき様子を見に来るだけである。

 加害者であるジョンドゥは、出所して、被害者に謝罪にきたらしい。
 しかし、そこには息子夫婦はおらず、脳性麻痺の娘コンジュがひとりで暮らしている。
 この最初の出会いのシーンが実に印象的である。

 コンジュの部屋に、白い鳩が飛んでいる。
 白い鳩はやがて、壁に揺らめく光に変わる。
 白い鳩は、コンジュが不自由な手で持っている手鏡が、外光を反射させて作り出していた幻影なのだ。反射する光がジョンドゥの顔を照らす。
 そこに兄夫婦が訪ねてきて、いったんは部屋を追い出されるが、ジョンドゥはコンジュが気になってまたもどってくる。
 コンジュは手鏡をうまく扱えず放り投げてしまう。
 今度は、鏡の破片が、壁に小さな光の粒を映し出す。
 いつのまにか、それは、何匹もの白い蝶に変わって、部屋の中を飛び交う。
美しく、不思議なシーンだが、このシーンにはどこかわたしたちの記憶を揺さぶるものがある。

 わたしの年代の人間なら、晩に締め切った木戸の節穴から、入り込む朝日が壁や天井に映り込み、それが次第に生きものの形に似てくるのを見ていたという経験があるだろう。
 あるいは、天井板の、節目が作る模様が、生き物の形に似てくるのを見ていたのを思い出すかもしれない。

 それはひとつのファンタジーではあるが、そのファンタジーを可能にしたのは、それを見ているこちら側にまだ、社会のコードに毒されていない「無垢」があったからかもしれない。
 反射する光が作り出す白い鳩や蝶は、社会のコードに毒されていない「無垢」の目だけが見ることができるものだと、映画は告げているようにも思える。

 ジョンドゥはコンジュに興味を抱いて接近するがコンジュに拒絶される。あるとき、なりゆきからジョンドゥは、コンジュを強姦しようとしてしまう。だれにも相手にされず、兄夫婦からも、障がい者手当の住宅を確保するために利用されたことを知っているコンジュは、次第に自分を犯そうとした若者を求めるようになる。

 恋愛がはじまる。しかし、これはずいぶんと悲惨な状況でもある。
 観客は、夢も希望もない、絶望的な人々の、行き場のない、絶望的な行状を見せられる。
 しかし、ここから、世間から見捨てられ、誰にも見向きもされないような、絶望的な二人のひりひりするような物語が始まる。
 この絶望的な二人が紡ぎだす恋の物語を、観客の一人であるわたしは、「ストーリーを追う」ように見入っていく。
 しかし、わたしはいくつもの地点で、ストーリーの行方を見失う。
 わたしのようではない、誰のようでもないふたりがつくる物語は、まったく、どこに転がりだすのか予測がつかないのである。

 二人はお互いを「お姫様」「将軍」と呼び合い、車椅子のデートを重ねる。
行く先々で白い目で見られる二人は、行く先々で奇異の目に晒され、お目当てのレストランでは入場を拒否されてしまう。
 それでも、二人だけの時間の中で、お互いがお互いにとって唯一無二の存在であることを確信するようになる。
 もし、この主人公らが障がい者でなければ、どこにでもある純愛物語であるのかもしれない。なぜ、どこにでもある純愛物語が、これまで、見たことのないような、言語を絶する恋物語になるのか。
 それは、障がい者たちが主人公だからか。
 おそらくは、そうではない。

 この映画が普通ではないのは、この映画が重度の障がい者と、軽度の障がい者であり社会不適合者であるふたりの主人公の視線から描かれているからではないか。
 われわれが見ているものと、青年と脳性麻痺の少女が見ているものとは、その表層は同じであっても、全く意味の異なるものなのである。
 社会を測定する物差しが違う。コードが違う。
 最も大きな違いは、かれらが「無垢」だということだ。

 冒頭のシーンが思い出される。光の戯れに「無垢」な精神だけが、息を吹き込むことができるように、かれらは、わたしたちにはただの異形の風物にしか見えないものに対してさえ息を吹き込むことができる。
 ときどき、われわれにも、この青年が見ているものが見える瞬間がある。
電車の中で、脳性麻痺の少女が健常者になるところがある。
 ただの光の戯れが、美しい鳥に変身するように、若者の目にはこの少女が変身する姿が見えるのである。

 ある晩、ふたりは服を脱ぎ、結ばれる。せつなくて、美しく、やるせのない濡れ場である。その最中に兄夫婦に踏み込まれてしまい、兄夫婦は、妹が強姦されていると勘違いしてしまい、警察に通報してしまう。
 ここから先の物語の展開は、わたしの想像を遥かに超えるものであった。
 最終的に、青年は刑務所に舞い戻ることになる。

 エンディングは、光の指す部屋の掃除をしている少女のもとに、刑務所の青年から手紙が届く。そこにあるのは、この部屋に差し込む光のように、弱々しく、切なく、たどたどしい希望である。
 この物語が描き出しているのは、「無垢」の受難である。
 一体、これから、この二人はどうなっていくのか。
 このエンディングの見事さは、『シークレット・サンシャイン』にも通じている。

 わたしたちは、もし、この作品をここまで観てこなければ、このラストシーンがかすかな希望であることを見過ごしてしまうに違いない。
 この映画がいつまでも心に残り、何度も心に蘇ってくるのは、わたしたちがそれを見る前と、見た後とでは、世界の意味がすこしだけ変化してしまっているということによるのかもしれない。
 わたしたちもまた、どこかで忘れ去ってしまった「無垢」に出会ってしまったのである。

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いごごちのカタチ

平川克美
立教大学大学院特任教授

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。現在、株式会社リナックスカフェと株式会社ラジオカフェで代表取締役をつとめる。立教大学大学院ビジネスデザイン研究科特任教授。著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書y)、『株式会社という病』(文春文庫)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(筑摩書房)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)、『俺に似たひと』(医学書院)、『「消費」をやめる~銭湯経済のすすめ』(ミシマ社)、『路地裏の資本主義』(角川SSC新書)など。最新刊は『「あまのじゃく」に考える』(三笠書房)

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