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いきかたのカタチ

スポーツ、観るする

平尾 剛

平尾 剛(神戸親和女子大学講師)
元日本代表ラガーマンが書き下ろす「スポーツは、だから面白いし飽きない」。
読めばもっと身体を動かしたくなる、面白いゲームが観たくなること必至。

いきかたのカタチ

スポーツ、観るする

第16回 勝利至上主義から逃れるために

 当たり前の話だがスポーツには勝敗がつきものである。ほとんどのスポーツは勝利を目指して行われる。スポーツを行う者は、勝つか負けるかのせめぎ合いに身を委ねることを厭わない、いや、むしろ勝負の場に好んで身を置き、そのヒリヒリとした緊張感を楽しむ。負けるかもしれないという恐れを克服して掴み取る勝利のよろこび、それを求めて少々の苦難なら受け入れる人のことを私たちは慣習的にアスリートと呼ぶ。
 そんなアスリートたちの闘いぶりを観る人たちもまた、勝負がもたらす緊張感を楽しんでいる。その競技に必要なからだを作り上げるための過酷な練習、あるいは怪我を乗り越えるなどの労苦を重ねて勝利を収めたプロセスに想いを馳せ、ときにそれを自分の境遇に置き換えて、日々の仕事や家事に育児、そのほか日常生活を営むための意欲やエネルギーを備給している。
 競争の場に身を投じるアスリートも、その様子を傍で見守る観客やファンも、勝利の奪い合いであるスポーツを楽しんでいる。しかしながら、元アスリートであり今は一スポーツファン、またその研究者である僕は、昨今のスポーツを心底から楽しめないでいる。

 その大きな理由が「勝利至上主義」である。

 数年前に知り合いから聞いたのだが、娘さんの所属するチームが地区大会の決勝で敗れて準優勝に終わった際に、顧問の先生が生徒たちの目の前でその賞状を破いたという。
「2位では意味がない!」と語気強く言い放ったというから驚きだ。その顧問はより高みを目指すべく発破をかける意味でこの行為に及んだであろうことは想像できる。だが、どれだけ歩み寄ろうとも決して許容することはできない。勝利に大きな価値があることは認めるにしても、2位に価値がないなんてことはありえない。チームが掲げた目標に届かなかったにせよ、まずは準優勝したことを労うのが指導者の役目だろう。

 勝利を奪い合う競争が大前提のスポーツだから勝者を礼賛するのは当然だ。それがなければスポーツの意味は失われる。だからといって勝利に価値を持たせ過ぎればこのような勘違いを引き起こすことになる。

 五輪などの国際大会では各メディアがこぞってメダルの数を勘定する。あれもいかがなものかと思う。メダルが取れそうな実力者ばかりにスポットライトを浴びせ、それ以外の選手の動向はほとんど報道されない。オリンピック憲章に国別のメダル数をランキングしてはならないという趣旨(オリンピック憲章71.「入賞者名簿」より)が書かれていることを、今一度思い出すべきだろう。

 また、自国の選手が出場するシーンばかりが放映されるから、優れたパフォーマンスを発揮する他国の選手を観る機会もほとんどない。たとえ放映されたとしてもメダルの行方を左右するライバル選手のみで、その競技の「文脈」が皆目わからない。

 さらにいうと、予選で敗退した選手の中には次の大会では力を発揮しそうな、荒削りながらもスケールの大きいパフォーマンスを発揮する者もいる。磨けば光る「原石」のこうした姿は、残念ながらメディアを通じてはなかなかお目にかかれない。放送枠や放送時間が限られるという事情があるにせよ、せめてこうした部分にも目配せをするような報道の仕方があると思うのだがどうだろう。

 こうした勝利至上主義がまかり通る要因は、「勝敗を決するという意味についての誤解」だと思う。スポーツに親しんだ者なら体感的にわかるはずだが、スポーツは勝利がすべてではない。自身の経験を開陳すると、それこそ敗北を喫したことは数知れない。対戦相手にしろ、レギュラー争いをするライバルにしろ、さらに自分自身にも、ことあるごとに負け続けた。
 その度に挫け、うなだれ、自己嫌悪にも陥った。圧倒的な競技力の差をまざまざと見せつけられて無力感に苛まれた。なにを目的として自分はラグビーに取り組んでいるのか、それすらわからなくなったこともある。混迷に打ちひしがれてもまだグラウンドに足が向く自分を発見して、次なるステージに挑戦する意欲が湧く、その繰り返しだった。だからこそ19年ものあいだ一つの競技を続けられたのだと思う。

「代表選出」や「日本一」は勲章に違いないが、あくまでもそれは一つの結果に過ぎない。肝心なのはそれに至るプロセスそのものである。にもかかわらず、クローズアップされるのは勝利という結果ありきのストーリーばかりで、それがどうにも腑に落ちない。勝つことよりも負けることの方が多い、それがスポーツだからだ。

 勝者の美学よりも敗者のそれの方が滋味深く、自らに重ね合わせやすいのは言わずもがなだ。勝者には、そこに到達した者にしか見えない景色を彩り豊かに語ってもらいたいが、それ以上に敗者には、あとに続く者が同じ失敗を繰り返さないためにも自身の失敗談を口にしてほしい。
すべてのアスリートにその義務がある、というのはいささか言い過ぎだが、スポーツにまつわる言説のほとんどが勝利至上主義の文脈で語られている現状を鑑みれば、こうも言ってみたくなる。

 僕たちが本当に観たいと望むのは勝利に至るまでの工夫や心の運びであり、また勝敗を超えたところに立ち上がる世界である。

 先だって行われた平昌五輪に印象的なシーンがある。スピードスケートの小平奈緒選手は、全てのレースが終わって金メダルが確定したあと、惜しくも敗れたライバルの李相花(イ・サンファ)選手に駆け寄り、互いの健闘を称え合うように抱擁したのだ。テレビやネットで繰り返し放映されたからご存知の方も多いはずだ。

 もうひとつ特筆すべきなのが、自らが叩き出した五輪新記録に沸き立つ観客席に向け、人差し指を口に当てて静寂を求める仕草である。その行為の意図が、すぐあとに滑る李選手への配慮だったのではないかと巷間で話題になった。自分を脅かす相手にも公平に接するその振る舞いに多くの人が感嘆した。

 小平選手はレース後の記者会見で「メダルを通してどういう人生を生きていくかが大事」と口にしている。この言葉からもわかるように、小平選手は選手という枠組みではなく人生という視野からスケートに向き合っている。もちろん世界1位という称号は賞賛に値するが、僕たちが注視すべきなのは彼女の競技への向き合い方やそれが感じられるシーンではないだろうか。

 もしも小平選手が傲岸不遜な態度をとっていたら?
 記者会見で自分が一番になったことをこれ見よがしに吹聴していたら?
 そんな姿を見ればおそらく大半のスポーツウォッチャーは嫌気が差すに違いない。ライバルへの敬意や公平性を重んじる小平選手の人となりは、常日頃からの心がけや家族や周囲の人たちからの影響を無視できないにしても、その根幹は勝利という目標に向かって努力するプロセスにおいて形成されたのだと思う。

 また女子のカーリングでは日本史上初の銅メダルを獲得した。彼女たちが頻繁に口にした「そだねー」という言葉に象徴されるように、終始楽しそうにプレーする姿が茶の間を賑わせた。チームのまとめ役を担った本橋麻里選手によれば、チーム作りに当たって強豪国のスウェーデンチームから影響を受けたという。スウェーデンの選手たちは選手村でものすごくリラックスしている。五輪を完全に楽しんでいる。そんな彼女たちの様子を見てメンタルの見直しが必要だと考え、平昌大会ではあえて裏方にまわって一からチームビルディングを行った。その結果としての「そだねー」であり、銅メダルの獲得につながったのである。

 スポーツ選手なら誰もが緊張をやりすごし、リラックスしたいと望む。その方が高いパフォーマンスが発揮できることを知っているからだ。だが、これは言葉で言うほど簡単ではない。

 もし負ければこれまでの努力が水の泡となり、応援してくれる人たちからの期待を裏切ることになる。こうした恐れや不安が増幅すれば、やがては心身の自由を奪う重圧となる。迫り来る重圧から逃れるためにはメンタル面の強化が求められるが、これを個々の努力で乗り越えることは経験的にいって限りなく困難だ。チーム全体に緊張を和らげる雰囲気が醸成されなければ、よほど強靭な精神力の持ち主でないかぎりリラックスすることはできない。平昌大会での女子カーリングチームは、この雰囲気作りに見事に成功したのだ。

 この小平奈緒選手と女子カーリングチームの功績からわかるのは、スポーツから受ける恩恵はメダル獲得に至るまでの道のりにあるということだ。元アスリートの立場から推測すれば、彼女たちがもっとも強く実感しているのはおそらく「内面に生じた変化」であろう。
 重圧を乗り越えるための術、からだをケアする大切さとその方法、対戦相手を敬うことの意味、チームメイトとの密な連携がもたらす想像以上の力、公平性を保つことの意義、からだに潜む能力の可能性、そして、勝敗を競い合うことの本質。これらが細胞の一つ一つに染み込むことで来した変化に、アスリートはこの上ない充実感を覚えるものだからだ。

 メダルを獲得した、つまり勝利という目標を達成したよろこびはもちろんあるだろうが、それは時とともに減じられてゆく。その反面、変化を遂げた心理的内面や技術は残る。引退後もずっと。

 勝ち負けを競い合うという仮想的なゲームは、こうした変化を劇的に生じさせる。自らが変化してゆくよろこびを追い求める者が真のアスリートだと、僕は思っている。これは、たとえ舞台が五輪でなく地方大会であっても同じで、それぞれの競技レベルに応じた目標を掲げてそれに向かって努力を続けることで、心とからだは変化してゆくものなのだ。

 ただこの変化は、自分自身でその全貌を把握することが難しい。技術が向上しているのか停滞しているのか、掲げた目標に近づきつつあるのか遠退いているのか、メンタル的にタフになったのかそうでないのかを、自分一人で吟味するのはそれ相応の「知的肺活量」がいる。言葉で表現しづらい身体感覚を手繰り寄せ、それをかたどるための適切な言葉が見つからない状態を、長らく強いられる。ここには水の中で潜水しているかのような息苦しさが伴う。運動習得場面でこうした「宙吊り状態」が余儀なくされるのは、コツやカンといった身体感覚が言葉に馴染まないからである。

 だからつい、勝敗というわかりやすい結果で把握しようとする。勝ったからこれまで取り組んできたことは間違っていないし、成長している。負けたから間違っていたし、停滞している、というふうに。

 でも勝負そのものを掘り下げてみれば、勝敗という結果がそれほど当てにならないことがわかる。たとえ自らの調子が良くても相手がそれより好調ならば負けるし、反対に調子が悪くとも相手がさらに絶不調ならば勝ってしまう。勝負は水ものだから、勝敗から内面に生じた変化の全貌を把握することはできない。場合によっては勘違いが生じる原因にもなるから厄介だ。

 僕は「内面に生じる変化」こそがスポーツを通じて得られる至上の恩恵だと思っている。これは言い換えれば「心身の成熟」ということだ。勝敗ばかりに目が向けば成熟度合いを見極めることが難しくなる。勝利を目標にした方が成熟しやすいからそうしているだけで、それが本来の目的ではない。勝敗はあくまでも方便だ。だから僕たちが注視すべきなのは選手の内面に生じた変化であり、人としての成熟が垣間見られるシーンや言動なのだと思う。ともすれば勝利はそれを覆い隠してしまうことを忘れてはならない。

 いってみればスポーツとは、「勝利を目指すプロセスでどれだけ成熟するかを競い合うゲーム」である。勝利ではなく成熟こそがスポーツの醍醐味だといってもいい。勝利そのものにはさほど意味がないことを実感する、すなわち心身の成熟がもたらす高揚感に気がついたときに初めて味わえる世界を、スポーツは見せてくれる。

 アスリートもスポーツファンも「勝敗を超えた世界」に触れると感動を覚える。いわく表現しがたいその胸の内を、両者ともに彩り豊かな言葉でもっと表すべきではないだろうか。メディアから繰り返し流される「勇気をもらった」「感動をありがとう」といったストックフレーズはもう聞き飽きた。
 「勇気」や「感動」はパッケージされてやり取りされるような安っぽい感情ではない。心の奥底から自然発生的に湧き上がるダイナミックな心的体験で、与えられるものでもなく、意図的に感じにゆくものでもない。つまり受動でも能動でもなく、熱のこもったシーンを目の当たりにすれば瞬時にそうなるしかないような、「中動態的な現象」なのだ。

 それをありきたりのフレーズでかたどるのはもったいなすぎる。「言葉にならない」と身悶えしながら言葉にすることをあきらめない、そうした姿勢からしか、本当の意味での勇気や感動は表現できないと僕は思う。

 「勝敗を凌駕した世界」を体現したアスリートは、その感触をできるだけ自分の言葉で語る。それを観て感動するスポーツファンは、できるだけ出来合いのフレーズに頼らずにその感懐を口にする。勝敗というわかりやすい表現手段を脇に置いて、まるで風景や情景を詠む詩のようにスポーツをかたどることができれば、どんどん広がりつつある勝利至上主義に歯止めをかけることができるのではないだろうか。

 スポーツにまつわる叙事詩を豊かにする。そうすればスポーツはもっとおもしろくなる。

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平尾 剛
神戸親和女子大学講師

1975年大阪生まれ。同志社大学を卒業後、三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。1999年、ウェールズでの第4回ラグビーW杯日本代表(FB)に選出。2007年に現役を引退し、現在は神戸親和女子大学講師。著書に『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)。この秋、ミシマ社から『近くて遠いこの身体』を上梓した。

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