SUMUFUMU LAB 住ムフムラボ

COLUMN コラム

各界の人気コラムニストが豊かに生きるコツを伝授します

いきかたのカタチ

ぼくが農家になった訳

橘 真

橘 真(甲南醸造所倭文土井農園経営)
淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、
日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

いきかたのカタチ

ぼくが農家になった訳

第12回 続・都市生活者の、地方への移住 

 移住する都市生活者が、「有機農業との関わり」、という形で、都市生活から失われた大地との有機的な繋がりを、回復しようとする、という事について前回書いた。

「有機農業」、「有機野菜」とは実は、身体に良さそうな食べ物、という、なんとなく無害で手触りの良い表層とはうらはらに、我々の社会の深層にとっての、強い批評性を孕んでいる。

 有機野菜が表象するもの、それはスーパーの野菜売り場において、包装されたそのパッケージから意味の領域へ、おそらく「はみ出している」。
 現代の我々にとって有機野菜というものをめぐる、「陳列棚からはみ出している」ものとは、いったい何であろうか?

 例えば僕が、カレーが好きとする。
 そこで少し極端な例として、うれしがって僕が、毎日カレーを食べ続けるとする。
 すると僕はそのうち遠くない将来、身体の隅々まで、カレーで出来ていることになる(なにしろ、カレーしか食べていないわけなので)。
 という事は、そこにはおそらく、僕とカレーとのあいだに、等式が成り立つであろう。

 もし僕らが毎日、コンビニでインスタントラーメンだけを買って食べる食生活を続けると、僕らはもれなく「インスタントラーメン」になる。
 あなたはどんな人ですか?と、誰かに聞かれたとしても、
コンビニとインスタントラーメンの関数です、としか、答えようがない。
 勘違いしがちなのであるが「個性」とは、その人が自分の「個性」だと思っているものを、その人から省いた、「残り」のことである。
 僕とは、すなわち、「インスタントラーメン」のことなのである。

 僕らがふだん毎日食べているものが、僕らを造る。
 それは僕らの身体そのものを造ると同時に結果として、僕らの情緒的な、例えば怒りの感情であるとか温かさ、優しさというようなものをも造っていることになる(アーサー・C・クラーク先生に、このあたりの少し突っ込んだ話をお聞きしてみたいところであるが)。

 しいて言えばそれは僕らひとりひとりの、食べ物と身体、その健康、といったようなパーソナルな僕らと食べ物との、個々の対応関係の範疇を越え、
僕らがふだん毎日食べているものが社会的なひろがりを持つ諸関係として、
僕らが暮らす社会の実相を「集団的に」形成している、という事である
(少なくとも幻想の水準においては)。

 食べ物とは、人間を造るもの、として再生産に関わり、「大文字の物語」として次世代を形成する。
 それはつまり食べ物が、僕らの「未来の実相」を形成する、という事である。
 僕らは今、インスタントラーメンが変換されたものとしての「未来」の生成、
「コンビニによるインスタントラーメン」という、僕らの社会の構造そのもの、
ソフィスティケートされた「利潤の集積」としての「未来」の生成に、
どちらかというと無感覚的に、立ち会いつつあるのであろう
(もちろん、というか、いわば当然のことながら、僕はインスタントラーメンが嫌いだと、ごねている訳ではない。僕がインスタントラーメンに対していだく感情は、普通にインスタントラーメンを食べて育った昭和四十年頃生まれの人間の平均的な感情とおそらく同じの、ごく親密なものである)。

 農業の原理は循環であって成長ではありません。成長なき安定、永続性こそ農業の特質です。
 それは農業の母胎である自然界がいささかも進歩発展せず、永遠の循環を繰り返しているためです。
 この大いなる循環の中に農も食も人々の暮らしもあるのです。
 過剰投資までして農業に成長を強制し、いまも続けているのは間違いだ。
 私はそう考えています。

(『市民皆農』 P120「農業近代化の渦中で~山下惣一氏より中島正氏への書簡より」 山下惣一・中島正著/創森社 2012年)

 上の引用は、僕の尊敬する、いささか過激な二人の老農(敬称)による往復書簡よりの抜粋である。
 お二人は文字どおり、激動する大正~昭和~平成の農業の現場を生き抜いてこられた。
 農業というものについて考えるとき、上の引用で山下氏が述べられている通り、その本質として「循環」がある。
 我々を含んだ形の循環、それはおそらく、「生と死」であり、「再生産と分解」である。
 そういうふうに言えば、農業というものははたして、純粋に「産業」として読み解いて形作られた、いわば閉じられた「体系」なのであろうか?

 いま、農業、農村、農民を支配しているのは「やらせる側」の論理ばかりであり、「やる側」の論理は衰退し、ほぼ息絶えたかのようである。
 農民の内面まで「やらせる側」の論理に染まっているため踏ん張りがきかず、
自力では局面打解もできない。この方向に農民の幸せはない。

(『市民皆農』 P1「農の明日へ~」 同上)

 ここで山下氏が述べられている「やらせる側の論理」とは、おそらく産業としての農業を語る、その「語り口」の事であろう。
 以前「贈与の返礼」(第7回)のところで少し触れたのであるが採録すると―

 戦後、日本の産地の農業は、右肩上がりの経済の発展と人口の増加に同調し、
近代化とともに発展してきました。
 しかし経済の発展がもたらす集中化による人件費に対する相対的な農産物価格の下落は、農業の機械化や効率化の速度を越えて生産者を圧迫しています。 
 加えて単価の下落を補う生産者あたりの生産面積の増加は、農業の持っている本来の「生産する喜び」を、単純労働のネガティヴな増加という形で損なってしまいました。
 そのような形で損なわれた「生産する喜び」は後継者の学習意欲を棄損するという「目に見えない」経路をとって生産者の高齢化、後継者不足、休耕田の増加、災害に弱い治水という、「目に見える」形で表面化しています。


「やる側の論理」、それはおそらく「生産する喜び」のことであろう。
 それは我々を含んだ形の循環、「生と死」に直接かかわることの「喜び」である。
 農業にかかわる喜び、それは循環する円環の「連続性」のことであり、「連続性」とは我々の、口承伝達的な「大文字の物語」のことである。
 連続性を失った産業としての農業は、「物語」として機能しない。
 それは「やる側」に共有されていた「物語」が途絶え、その土地にとってのかけがえのなさ、その土地固有の集団的人格の絶滅を意味する。
 そこにはもう、「伝えていく」主体は存在せず、「後を継ぐもの」としての次世代は形成されない。
 我々は産業としての農業、「儲かる農業」というような「語り口」と引き換えにたぶん、「名」を失うのである。

 自我の成立を、自分と自分以外のものの間に境界線を引くという事に関連させて考えると、自我とは、いまだ未分のそうであるかも知れないもののうちの、境界線を引かれた後の、そうであったものとそうではなかったものの差、によって出来ている。
 境界線とは禁止によって引かれる、という事にそのことを重ね合わせると、
自我とは、自分の中で肯定的に「自己否定」が機能したもの、「自分で禁止したもの」という事である。

 我々はたとえば現代の日本という均質性の高い社会のどこかで暮らしているわけだけれども、その均質性の高い集団、どこか自分とは少し違った小さな差異を含んだ、見かけの「同質性」の高い集団において、我々は、「どこか自分とは少し違った小さな差異を含んだ見かけの同質性」、そのものを恐れる(それは空気と呼ばれる)。

 それは、実はほとんど同じなのであるが、よく見れば少し違う(かも知れない)というような(どうでも良さそうな)小さな差異が、集団の中で自我に対する自己言及的な「整合性」への問いとして機能したとき(それはいじめと呼ばれる)、その差の小ささゆえにその脅威から自我を論理的に防衛できないという事実に基づいている
(同質性の高い集団は自分と他人を同じものとして扱うので、目の前の小さな差異を含んだ見かけの他者はその整合性において自我の正当性をおびやかし、それは自我の全面決壊のトリガーになる危険性を、常に潜在的に孕んでいる、という事である)。

 そのような理路で、そのような「空気」に対する恐れは、極めて自粛的に内側に向かうものとなり(「空気」が、自己言及的な「整合性」への問いとして機能することに対しての警戒である)、場合によっては恐れとは別の、軽蔑や嫉妬というようなものに形を変えて排他的に外側に向かう
(直接的な恐れという形をとらないのは自分がなぜ恐れているのか、通常自分ではわからないからである)。

 我々の暮らすたとえば現代の日本という均質性の高い社会は、そのようにその均質性の高さゆえの脆弱性を孕んでいる。
 それはその小さな差異が、もし「許せない」となったとき、本当に「許せなくなる」という事である(論理的な背景を持たないゆえに)。

 自我の根拠を脅かす小さな差異、それを偉大な先人たちは「隣人」と呼んだ。
「隣人」とは、おそらくいまだ未分のそうであるかも知れなかったもののうちの、「自分で禁止しなかったもの」、もうひとりの「自我の起源」である。

 有機野菜が表象する批評性とは、「コンビニによるインスタントラーメン」という僕らの社会の構造に対する批評性であろう。
 そして僕らはそのこと、社会の構造そのものについて、どちらかというと無感覚である。
 有機栽培、それはその名のとおり、(生きているものとしての)有機性を指す。
 有機性とは、具体的な農場における狭義の、「飼料→家畜→畜糞→土壌→飼料」という循環としての有機性であり、それは地域やコミュニティー、さらに地球というものへの有機的な視座へ拡大する事が可能である。

 というわけで、このような文脈においては、有機栽培が意味するものとは極めて「ポリティカリーにコレクト」に、オルタナティヴなものを象徴している。
「次世代的有機農業」それは諸相において「伝統」を継承し、地球的視座の、農業的な集団的人格を獲得する。
 しかし一方で、そのような「次世代的人格」の新たな現出は、「ポリティカリーにコレクト」なゆえの、どちらかというと無感覚な慣行的人格の、上下方向の新たな排除を生む。

 僕らの社会の深層にとっての批評性、有機野菜が表象する真の強い批評性とはおそらく、次世代的人格が、僕らの社会構造のオルタナティヴを象徴するか、という事であろう。
 そしてそれはこの場合、インスタントラーメンを食べる隣人に対して、実質無関心以外の態度が無矛盾的な、次世代的人格ははたして可能か?という問いを通してなされる。

 それは言い換えれば、言及することが論理的にできない自我が成立する前の
「いまだ未分のそうであるかも知れないもの」を抱え込む、僕らの社会構造の深遠に対する「態度」であろう。
 それは僕ら自身が抱え込む「陳列棚からはみ出しているもの」でもある。

バックナンバー

私たちのくらしにとって大切な「かぞくのカタチ」「いごこちのカタチ」「いきかたのカタチ」。
この3つのカタチを通じて、自分らしい、より豊かなくらしについて、いっしょに考えてみませんか。

いきかたのカタチ

橘 真
甲南醸造所倭文土井農園経営

1965年神戸市生まれ。神戸を代表するレストランとして一時代を画した[ジャン・ムーラン]のソムリエを経て1994年に北野のワインバー[ジャック・メイヨール]の店主に。闊達でフレンドリーな店として人気を博す。その後淡路島に移住し、2009年南あわじ市の「甲南醸造所倭文土井農園」を立ち上げ、淡路島内外のレストランに野菜、卵、蜂蜜、の直接販売を手がける。

バックナンバー

橘 真氏のイベント

かぞくのカタチ
いごこちのカタチ
いきかたのカタチ

バックナンバー一覧