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いきかたのカタチ

ぼくが農家になった訳

橘 真

橘 真(甲南醸造所倭文土井農園経営)
淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、
日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

いきかたのカタチ

ぼくが農家になった訳

第13回 『哲学するレストラトゥール』を書いた訳

 このたび『哲学するレストラトゥール』という題で本を上梓させていただきました。
 その件でご尽力いただきました関係者の皆さま、そしてなにより本書を読んでいただいた皆さまに(そしてそういう事なら、ちょっと読んでみようかと思われた、これから本書を読まれる心優しい皆さまにも)、ここであらためて御礼を述べたい。
 皆さま、どうもありがとうございました。

『哲学するレストラトゥール』は「住ムフムラボ」の本連載コラム、「ぼくが農家になった訳」に、大幅に書き下ろしを加筆した体裁になっています。
 新たな書き下ろしになっている章は、本連載コラムに書いたこととおそらく同じことが、別の言い方で書かれています。それは、基になった「ぼくが農家になった訳」と層として重なることによって、本書が、あるいは世界の陰影であったり奥行きであったり色彩であったりのダイナミズム、いわば「世界の成り立ちのようなもの」の片鱗に、より具体的に触れることが出来ないだろうか?というささやかな野望(?)として構想されました。

 今回は本書より少し抜粋して、そのような『哲学するレストラトゥール』を書いた経緯というような事についてです。

 僕が農業に直接かかわることをなんらかの終(つい)のカタチにしたいと思ったときに(まだ淡路島に来る3年ぐらい前のことである)、僕が最初にしたことは中古の軽トラを買うことであった。そのようなある種の態度を「カタチから入る」というふうに一般に言われると思われるが、はたして僕は、そのように物事を理解し、進めていく性質の人間である。僕は仕事の合間を縫って休日の度に、その軽トラに乗って神戸の近郊を低速で移動して回った。軽トラのフロントガラス越しに眺める恒常的な低速の風景というのは、都市生活者にとって未知である。それは僕にとって、とても愉しい体験であった。そのような軽トラの愉しさというのは、僕らが知っている自転車やオートバイの愉しさと少し性質が違う。軽トラの愉しさとはそれはおそらく都市生活者としては贅沢な、恒常的な低速として社会に関わるということの愉しさであろう。僕はそのことがもたらす愉悦がそれ程のものとは思いもしなかったために(それまで僕はどっぷりと都市生活者だったのである)休日の度に軽トラでうろうろすることに夢中になってしまった(それはヨットで航海することが愉しいということと少し似ているような気がする)。
「カタチから入る」ということは、それは僕の中では「憑依」するということである。それはつまり、完全に「乗り移ること」、あるいは「憑かれる」ということである。自分が何かに「乗り移ること」、あるいは何かに「憑かれる」ということは、一時的に自分の「結界を解く」ということであり、その全面的に無防備な受動性がおそらく何かの「きっかけ」を招き寄せる。たぶん僕は「カタチから入る」ということを、そのように理解しているのであろう。

(橘真『哲学するレストラトゥール』―軽トラのフロントガラス越しに眺める、次世代の風景―ブリコルールパブリッシング、2017年、P212-213)

 日常生活における都市生活者の、公道での振る舞いにはあり得ない恒常的な低速としての「軽トラの所作」、農道や林道における「軽トラのフロントガラス越しに眺める恒常的な低速の風景」というのは、僕たちの無意識な既成概念の「書き換え」を表象している。

 日常生活における都市生活者の、公道での常識的な速度では見えなかった風景、感じることが出来なかった何かが社会との関わりにおいて「あり得る」社会が存在する。それは「どっぷりと都市生活者だった」僕にとって驚きでした。 
 僕は一時的に自分の結界を解いて「軽トラと、その所作にまつわる人間」に憑依することで、「僕たちの無意識な既成概念とは別の、社会との関わり方の可能性があり得る」ということを体感したのでしょう。
 それは僕にとって今少し立ち止まって眼をつむり、背筋を伸ばして足元を踏み変え、「足の運びを変える」ことによって体感した、身体全体のかつて経験されたことのなかった「未知の動き」であったのでしょう。

 貨幣の循環する社会。それが僕たちの暮らす社会である。
 いったい何が貨幣を循環させるのか? なぜ貨幣は循環し、滞留するのか?
 例えば「貨幣の循環する社会」を「物質の循環する社会」というものに対比させるとき、「貨幣の循環する社会」とは、物質の「生と死」が循環する「物質の循環する社会」の有限性が解錠された、抽象的なものが際限なく循環する社会である。

 いったい何がそのような抽象的なものを循環させるのか? なぜ抽象的なものは抽象的ではないもののようにふるまい、偏在するのか? それは僕(僕ら)自身が抱え込むなんだかよくわからないもの、僕たちの暮らす社会の「深淵」というものであろう。それはおそらく、僕らが想像する以上に恐ろしく深い。 
 こういってよければそれは僕ら自身にも掴みどころのない、貨幣の循環する僕らの社会の「僕らの集団の欲望」のことであろう。それはもう欲望ですらなく、きわめて抽象的な「構造」、僕たちの無意識な既成概念の別名であろう。

 もしかしたら今、少し立ち止まるときなのかも知れないと感じた経緯は、一時的に自分の結界を解いて「軽トラと、その所作にまつわる人間」に憑依するということがそもそものきっかけでした。

 僕たちの暮らす「貨幣の循環する社会」は今、どこか循環には不可欠の調和という均衡を失いつつあるように僕には感じられます。流動する何かが自閉的に滞り、偏在し、そしてその諸相から僕ら自身を置き去りにする。それは農家になった日常から感じられる「贈与され、贈与するということが循環する」という開放された世界の成り立ちが「貨幣の循環する社会」にうまくリンクしていないということなのでしょう。それは僕たちという有限な存在を引きずりながら滑っている。

 僕らは今少し立ち止まって眼をつむり、背筋を伸ばして足元を踏み変え、「足の運びを変える」。そして、そのことによって体感された身体全体の「運び」は、僕たちの無意識な既成概念をも書き換える。『哲学するレストラトゥール』を書いた経緯、それは僕にとって「生と死が循環する」社会というもの、かつて経験されたことのなかった身体全体の「未知なる動き」の体感へのその信頼の「オマージュ」であるのかも知れません。

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いきかたのカタチ

橘 真
甲南醸造所倭文土井農園経営

1965年神戸市生まれ。神戸を代表するレストランとして一時代を画した[ジャン・ムーラン]のソムリエを経て1994年に北野のワインバー[ジャック・メイヨール]の店主に。闊達でフレンドリーな店として人気を博す。その後淡路島に移住し、2009年南あわじ市の「甲南醸造所倭文土井農園」を立ち上げ、淡路島内外のレストランに野菜、卵、蜂蜜、の直接販売を手がける。

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