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いきかたのカタチ

絵を飾る人のキモチ

橋爪節也

橋爪節也(大阪大学総合学術博物館教授・前館長)
「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。
気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも。

いきかたのカタチ

絵を飾る人のキモチ

第15回 “蒐集もまた創作なり”伝説の大コレクター魂

「大阪新美術館(仮称)」のコンペ結果が発表されて1年。遠藤克彦建築研究所を最優秀案に、平成33年(2021)度の中之島での開館をめざすという。「大阪新美術館(仮称)」は、もともと大阪市の市制100周年記念事業として計画された「大阪市立近代美術館(仮称)」のことで、10年前まで私は、20年近くそこの学芸員であった。
 
 バブル崩壊もあって計画は進まず、30年以上も経ってようやく建設されることになったわけである。新美術館のために貴重な美術品を寄贈したものの開館が間に合わず、亡くなられた方を多く知っているが、『仮名手本忠臣蔵』の判官さんなら「遅かりし由良之助」とうめくところだ。



堂島川にかかる田蓑橋から見た「大阪新美術館(仮称)」完成予想図(遠藤克彦建築事務所)。手前のゾーンにゆるやかな丘を造り、エントランスに向かわせる。東側(左)はレストランやカフェのあるダイビル本館に専用歩道橋でつながる(写真提供:大阪新美術館建設準備室)


 美術館計画の背景には、実業家で美術蒐集家であった山本發次郎(はつじろう/1886~1951)のコレクションがある。山本コレクションは高僧の墨蹟を中心に、中国の石彫、中国朝鮮の陶磁から東南アジアの染織、浮世絵、近代洋画、ルネッサンスのタペストリー、西洋近代絵画や彫刻などに及ぶ。

 特にパリに斃れた天才画家・佐伯祐三(1898~1928)作品の蒐集が有名で、モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》(大阪新美術館建設準備室所蔵)やルオーの作品も所蔵していた。



山本發次郎コレクションから、佐伯祐三の代表作の一つ《郵便配達夫》油彩・カンヴァス(80.8×65.0㎝) 1928年(大阪新美術館建設準備室蔵)


 昭和58年(1983)、發次郎の御子息・山本清雄氏より佐伯の油彩画40点をはじめ、近代洋画、墨蹟、東南アジアの染織など約580点が大阪市に寄贈され、近代美術館建設構想がスタートしたのである。



部屋のあちこちに蒐集した美術品が飾られた山本邸にて、發次郎(後列左から二人目)と家族


 私の連載では、絵をどのように室内に掛けるかを書いてきたが、今回、山本發次郎というユニークな審美眼をもった大蒐集家を紹介し、大阪のコレクター魂に触れてみよう。


大阪商人の美術品収集

 美術品蒐集の情熱はどこから生まれるのだろう。日本人のコレクションでは、西洋絵画では国立西洋美術館の松方コレクションや大原美術館のコレクションが有名だし、大阪市立美術館の阿部コレクションも中国書画のコレクションとして世界的に知られる。

 最初に紹介したいのが田村太兵衛(1850~1922)である。明治時代、新政府が設置した大阪府が大坂三郷(現在の大阪市中央区・北区・西区周辺)も管轄したが、明治22年(1889)に「大阪市」として市制を施行した。これが新美術館構想の「市制100周年記念」の根拠である。

 当初は市長を置かずに府知事が市長職務を行った。これを「市制特例」と言い、東京市、京都市も同様に市長が置かれず知事が市長の職務を代行した。知事は政府が任命し、三都を国が直接コントロールしたのである。

 しかし、明治31年(1898)に「市制特例」が廃止され、市が府から独立する。市会推薦で住友吉左衛門を抑えて初代大阪市長に就任したのが、心斎橋筋二丁目で丸亀屋呉服店を営んでいた田村太兵衛である。田村は、それまで江之子島の府庁舎内に置かれていた市の庁舎を新設したり、上下水道の拡張や、現在の大阪市立大学につながる大阪高等商業学校の創設を行っている。

 この人は美術工芸品の蒐集家であり、古美術鑑定に長じて、後に大阪博物場長になった。所蔵品が今泉雄作著 『古制徴證(こせいちょうしょう)』(明治35・36年)に掲載されるなど、大阪商人らしいコレクターであり、初代市長が美術の愛好者だなんて、かつての大阪の文化水準の高さが分かる話である。

 不明なことも多いが、市長になるときに田村は丸亀屋を「たかしまや飯田新七呉服店」に売却し、髙島屋が大阪進出を果たした。明治42年(1909)髙島屋飯田家所蔵の日本画を「現代名家百幅画会」として京都店で公開したが、会場を心斎橋店に移したところ購入希望が多く、明治44年(1911)、美術工芸品を扱う髙島屋美術部が心斎橋店で創設される。

 美術部設立が有力画家の住む京都ではなく、大阪であったことが面白い。市民に有名画家の作品を身近に鑑賞できる美術館のような役割も果たしたほか、画家に依頼した初々しい新作が手に入ると前評判も高く、初日は早朝から客が殺到した。

 大正3年(1914)の院展再興第1回展もここで開かれ、今村紫紅筆《熱国之巻》(東京国立博物館所蔵、重要文化財)はじめ、横山大観、下村観山、前田青邨(せいそん)、安田靫彦(ゆきひこ)、小林古径(こけい)、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)らが出品している。


山本發次郎の生涯と蒐集

 ここからが山本發次郎である。本名は戸田清、岡山県上房郡北房町(現・真庭市)に生まれた。東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業後、鐘淵紡績に入社し、山本家に婿入りする。義父の初代發次郎は、船場の安土町にメリヤス肌着の製造販売業を起こし、清は大正9年(1920)に二代目發次郎となる。

 欧米漫遊から帰国後、芦屋に竹腰健造の設計になるスパニッシュ風の自邸を建設した。邸宅は白雲荘と命名され、この建設を機に室内装飾用の美術品購入への関心が發次郎に起きたらしい。
 さらに蒐集の本格化は、郷里ゆかりの高僧・寂嚴諦乗(じゃくごんたいじょう)の墨蹟に魅せられたことがきっかけとされる。



寂嚴諦乗《挙直》紙本墨書(28.2×62.0㎝)(大阪新美術館建設準備室蔵)

 歴代天皇の御宸翰(ごしんかん)や、慈雲飲光(じうんおんこう)、白隠慧鶴(はくいんえかく)、仙厓義梵(せんがいぎぼん)、良寛、明月ら江戸時代の高僧の墨蹟蒐集も開始された。


 ゆる美術のうちで書を最も好みます。併(しか)し一番嫌ひなものゝ多いのも書であります。絵画や彫刻以上に書が最も端的に人の心を表現するものであるからでせう(「書道私論」)

 と、發次郎は書への愛好を述べる。昭和11年(1936)日本放送協会大阪放送局の伊達俊光にも次のように答えている。


 私は元来書が好きで、東洋の芸術として書を第一と考へているし、書の精神は今のフランスのピカソや其他の傑れた作品にもよく共鳴し得るものに違いないと自信する。(伊達俊光「芸術蒐集の真義」、『大大阪と文化』昭和17年、金尾文淵堂発行)


 佐伯祐三の作品との出会いは運命的だった。佐伯がパリで歿したのは昭和3年(1928)。同年の第15回二科展で追悼展が開かれたが、コレクターはまだいなかった。發次郎は昭和7、8年(1932、33)から佐伯蒐集に打ち込み、昭和11、12年(1936、37)頃までに作品を蒐め尽くした。

 發次郎が衝撃を受けた最初の作品が、造形上の贅肉を削ぎ落とした佐伯の最高傑作である《煉瓦焼》(大阪新美術館建設準備室)である。



佐伯祐三《煉瓦焼》油彩・カンヴァス(60.2×73.1㎝)1928年。發次郎は上野の東京府美術館で開かれた遺作展(1937年)のポスターにもこの絵を使っている(大阪新美術館建設準備室蔵)


 山本家出入りの額縁屋が、山本さんなら必ず興味を抱くと確信して《煉瓦焼》を持ちこんだという。大胆にぐいっと引かれた屋根の太い線が、書を愛する發次郎の琴線に触れたことが想像できる。

 昭和12年(1937)、東京府美術館で自分のコレクション108点による佐伯の遺作展を開催し、現在の古書価格で10万円はする豪華本『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』(座右宝刊行会)を刊行した。



『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』座右宝刊行会 1937年(写真提供:大阪新美術館建設準備室)


 同書の中で發次郎は、佐伯作品に線の芸術を直感して、高僧たちの墨蹟と結びつけて語る。


 茲(ここ)に今私は佐伯の絵を見る時、その線のうま味、殊にその強さと枯淡さとには、私の最も尊敬する不世出の大書僧たる前記寂嚴、慈雲、良寛等の高僧の書や、白隠、仙厓の画に対する時と、余程共通した魅力を感じ…『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』より


 ただし、「寂嚴、慈雲、良寛の書を見せて死なせなかつたことは実に残念です。私はこのことだけでも彼の夭折を心から惜しみます」(「佐伯祐三遺作蒐集に就いて」)と残念がり、佐伯が寂嚴や慈雲を見たら、ヴラマンクやユトリロ、ゴッホの傑作に接した場合とも違う、もっと奥の心に触れた衝撃を受けて、画格が一段と高くなったと付け加える。
 確かに長生きした佐伯が高僧の墨蹟を見たら、どんな感想を述べたかは想像力をかきたてる歴史のifである。


“山發”コレクションの個性

 山本のコレクションの魅力は、東洋の書と佐伯祐三やモディリアーニなどの洋画を結びつけた個性尊重の芸術観であった。

『山本發次郎遺稿』(里見勝蔵編、山本清雄発行、昭和28年)には、その蒐集哲学と高い審美眼が峻烈な言辞で刻印され、ページを開くと、焼けつくほど度数の高い酒を、グイッと飲み乾したような爽快感さえ感じさせられる。美術品蒐集の情熱がどこから生まれるのか、發次郎ほど明確に答えた人物も珍しい。伊達俊光には次のように話している。


 美術品の蒐集、購入のやうな事は現下のやうな物騒な時代では何だか時勢に反してゐる閑事業、御道楽のやうに見られ又誤解を招く恐れがあるが(中略)私はよく美術品の蒐集は永遠的の文化事業であると信じてやつてゐます(同前「山本發次郎氏の蒐集」)

 民間の蒐集家が美術品蒐集を「永遠的の文化事業」と語るのが、さすが大阪商人のプライドである。
 それに發次郎は、コレクションを秘匿し独り楽しむ蒐集家ではない。作品の真価を世に認めさせるため進んで公開し、山本家は東京帝国大学美術史専攻の学生たちの研究旅行のコースとなった。



山本邸を訪問した東京帝国大学美術史研究室の学生たち


 伊達にはつづけて彼一流のコレクター論が述べられる。


 私の蒐集は決してこれを金銭に換算し、世の富豪のように有価證券を所持しているが如き心持ちでなく、私は消亡(ママ)品として、山本一個の主観的のコレクシヨンとして蒐集も亦創作なりとの観念で集めているので、大原孫三郎さんの倉敷の美術館は児島虎次郎画伯の手によつてなされているが、児島氏自身も大原氏の意志を多少加へて自己の主観や、好みで蒐集していない所に妥協的な不徹底な点があり、又松方幸次郎氏の如き其蒐集は厖大であるが、松方氏一個の趣味とか意見とかが現はれていない所に不満がある。(同前)


 なんと“カッコいい”言葉だろう。美術愛好におけるダンディズムとでも言うべきか。昨今の経営者や政治家に聞かせたいものだ。それに、松方幸次郎や大原孫三郎のコレクションにも發次郎は納得しない。この二大コレクションに發次郎は充たされないものを感じる。それが個性の尊重であった。
 發次郎の蒐集活動は、彼自身の美意識、審美眼を賭した戦いであり、近代人が重視した自己の個性を主張する手段であった。

 別の随想でも、芸術鑑賞や蒐集家にも個性が必要と主張し、「芸術には個性がなければ生命がないわけである。それと同様に芸術の鑑賞と理解にも亦個性がなくてはならぬ」とする。「蒐集も亦創作なり」なのである。


「書道私論」と高僧の墨蹟

 もう少し突っ込んでみよう。東京府美術館で「佐伯祐三遺作展覧会」を開催した1937年の『中央公論』5月号に「書道私論」を発表する。

 美学的に論じるなら書は、品格を指す「書品」から見るのが本質的であり、技法の重視は枝葉末節とする。手本通りの型にはまったものは個性の尊さを忘れたもので、展覧会でも陳列作品に個性の違いが無いならば、自発的ではない書かされたもの、育てられたものでなく作為されたものと断じる。

 個性尊重は絵画や彫刻にも向けられ、アカデミックな美術学校の教育や官立の公募展である帝展審査なども、美術家を育てるには無用であるとする。アカデミズムを否定する精神性は、佐伯祐三がパリで野獣派の巨匠ヴラマンクに叱咤され、画風を一変させた逸話を思い出させるが、發次郎の芸術観の形成に、有名な佐伯のエピソードが啓示を与えた可能性が高い。

 發次郎にとって書は、絵画彫刻や詩歌、音楽とも違い、点と線と字形だけによって抽象的な感覚のエッセンスを表現する「自己に最も直接した芸術」とみなしていた。書は「心の画」であり、純粋性において「最も深味のある、芸術以上の芸術」なのである。模倣や衒(てら)ひ、諛(へつら)ひなどの不純さがあっては、俗悪な臭気が紛々とするとも批判した。


 芸術は神に近いか遠いかで位が定まります。情緒と感覚に純粋なれば自由があり、創造があり、生命の溌剌さがあります。真似や衒ひや譎りがあつては、凡俗、浮誇な血の気のない、末梢的な芸術になりませう(「書道私論」)


 そして、寂嚴や慈雲、明月、良寛の四人の高僧をあげた。


 此四人者の書は不思議に打揃つて他の群星を断然擢(ぬき)ん出て、天上を闊歩して居ると思ふのであります(中略)彼等の書こそ技巧を超越してゐます。彼等の書の迫力はその形に捉はれない形の裡に躍動してゐるのであります。形の美しさを表はすためには、勿論腕前を磨けばいゝのでありますが、形に捉はれない形の美しさを現はすためには、どうしても精神そのものをもつてブッつからなければなりません(同前)


 こうした言葉は観念論に見えるかもしれない。しかし蒐集家である彼は日常から高僧の書と生活をともにし、誰よりも作品に接している。


ユニークな鑑賞空間

 ここからが御自宅に美術品をどのように架けるか、思案しておられる読者諸氏に伝えたいことである。發次郎は、あたかも美術館の中に住むような自邸について書く。


 私は自分の居間に慈雲尊者と寂嚴の額を掲げ、健陀羅(ガンダーラ)や六朝仏(りくちょうぶつ)をまつり、埃及(エジプト)、希臘(ギリシャ)、波斯(ペルシア)、の古陶を列べ、懐月堂や写楽の版画に交へて、ゴツホやゴーガンと共に佐伯の絵を飾つております。雑然といり乱れて居る様ですけれど、私の感じでは、能く統一がとれ互に調和して、古今三千年、東西数万里、少しも隔てなく、どこかに一脈相通ずる点があつて、よく迫力が平衡してゐると思つて居ります(「佐伯祐三遺作蒐集に就いて」)


 「雑然といり乱れて」とも語っているが、東洋と西洋、古代から近代の美術品が共存するなかでの生活こそ、蒐集家としての醍醐味と言わずして何と言うべきか。先の書道論も、作品に囲まれた濃密な日常に培われた強力かつ高度な審美眼によって語られた議論であり、知識だけで組み立てられた観念論ではない。

 發次郎が語ると意気軒昂で壮大だが、みなさんも実は、雑多なものを自分の趣味に従い、独自のバランスで自宅の壁に架けているのではなかろうか。本格的な美術工芸品は買えなくても、エヴァンゲリオンのフィギュアとゴッホ展で買った向日葵の額絵が並んでいたとすれば、そこにも独特のバランス感覚が働いているのだろう。

 こうした空間からさらにユニークな審美眼が熟成していく。山本コレクションで、もう一つ大きなウェイトを占める白隠について發次郎は、白隠の線がフランスの画家ルオーに通じ、ルオー以上に精神的な輝きを発しているとする。



白隠慧鶴《青面金剛》紙本墨書(133.0×39.2㎝)(大阪新美術館建設準備室蔵)


 發次郎が白隠に見いだしたのは“美”ではなく“得体の知れぬ力”であり、アフリカの原始美術やこどもの絵、井戸茶碗のような「稚拙美」とも異なった「人間の智能や常識を無視した不敵美」とでも呼ぶべきものであった。“不敵美”とは面白い造語である。

 また發次郎は、現代の西洋絵画は「東洋の書」を理想に求めているとする。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなど西洋の画家は日本の文人画や浮世絵に学んだが、20世紀になるとマチス、ピカソを先頭に野獣派、立体派、未来派、表現派が登場し、抽象絵画や主観的心理描写を極めようと進み、ついには感情や自己表現のため具象では満足できず、「音楽以上に抽象的な書といふ視覚芸術」に到達したとする。

 戦後も「今や新しい抽象絵画の開拓者達が、海を渡つて東洋の書に深い関心をもち、その本質を究めようとしているかに聞いています」(「白隠芸術の特異性」)と記した。確かにアメリカでもヨーロッパでも線が活躍する抽象が盛んとなり、發次郎があと10年長生きすれば、大阪でも、吉原治良(よしはらじろう)を指導者とする具体美術協会の画家たちの活躍を見ることができただろう。

 最後に發次郎が打ち込んだのが、松山の神官・三輪田米山(みわだべいざん)の書の蒐集で、その熱中を知人に「六十過ぎてもこの脱線振り禅味と御嘉賞願はれ間敷(まじく)候、兎も角青春にも似たる情熱の程は御汲み取り被下度(くだされたく)候」と書き送っている。ついに還暦になった私も、いま一度、こんな情熱を感じてみたいものだ。


中之島に立てば

 發次郎は「山本一個の主観的のコレクシヨン」を公開する美術館建設の夢も語った。


 私は飽迄山本コレクシヨンとして多少偏する所があつても、自分の主観を発揮するものを集め将来美術館でも建てる積りで、子孫が私のこの蒐集を継続し得ぬにしても、私は私一個の見識と主観の徹している山本コレクシヨンとして将来世に残存して置きたいと考えている(「芸術の個性と鑑賞の個性」)


 發次郎は美術館を建設せずに歿し、遺志を継いで御子息よりコレクションが大阪市に寄贈され、近代美術館建設構想が誕生したのである。新しい美術館建設は、大阪の生んだユニークな人物の精神、美術が生み出す感動を広く市民と共有しようとする思想、「永遠的の文化事業」への思いを顕彰することでもあるのだ。

 最後に、發次郎は「芸格に於ては何といつても、慈雲尊者だけは別格」(「無名の書聖三輪田米山」)と評価して慈雲の蒐集に力を入れている。慈雲の書はかすれた墨線を特徴とし、正法律の復興者であった求道の精神を映して他の追随を許さない。サンスクリットである悉曇(しったん)を書いた掛幅や扁額の調子も高い。



慈善飲光《不識(達磨画賛)》紙本墨画(132.5×54.2㎝)(大阪新美術館建設準備室蔵)


 慈雲尊者生誕三百年を記念して、慈雲尊者生誕三百年記念奉賛会により生誕の碑の周囲が整備され、彫刻家の後藤英之氏により新しい顕彰碑も建立されている。ちなみに新美術館が建設される旧大阪大学医学部の跡地は、もともと広島藩蔵屋敷の跡でもあり、中之島~蔵屋敷~慈雲尊者~山本發次郎~新美術館、何かの宿縁が続いている気がする。



慈雲尊者生誕地に建てられた新しい顕彰碑(後藤英之作)


 さて今回は堅めの文章とあいなりましたが、それはそれとして、春めいてまいりましたね。収拾のつかない蒐集はなし。早く美術館建設も収拾して、もっと盛んに作品を収集してもらって、花のつぼみがほころぶように「大阪人も、やはり美術が好きなんですね」といった台詞を、世界中から聞かせてもらいたい今日このごろです。


追記 
○山本發次郎著・河崎晃一監修『山本發次郎コレクション−遺稿と蒐集品にみる全容』(淡交社・平成18年)
○橋爪節也「大蒐集家 山本發次郎と佐伯祐三コレクション」『大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室開設記念 佐伯祐三―熱情の巴里―』図録所収(平成16年)
○『三輪田米山の書 近代という憂いのかたち』(成田山書道美術館監修、里文出版・平成16年)などもご参照下さい。

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橋爪節也
大阪大学総合学術博物館教授・前館長

1958年大阪市生まれ。東京藝術大学助手を経て大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員、現在は大阪大学総合学術博物館教授・前館長。近世近代の美術史を研究し、編著書に『大大阪イメージ─増殖するマンモス/モダン都市の幻像─』(創元社)など。今春、八尾市立八尾図書館に開設された「今東光資料館」の基本構想を座長としてまとめた。

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