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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

最終回 路地裏映画館15 ドラマと映画のあいだ

 この連載も、今回が最終回。
 今回は、映画とは一体何なのかということについて、考えることがあったので、そのことについて思いついたことを中心に書いてみようと思う。

韓流ドラマ中毒
 このところ毎日、韓国ドラマばかり観ている。ご多分にもれず、入り口は『愛の不時着』で、続けて『梨泰院クラス』。両作とも、16話完結という長い物語だが、ほとんど一気に観た。1話あたり90~100分ほどの尺があるので、1日で3話続けてみれば、それだけで5時間、モニターの前に座り続けることになる。日常も変化せざるを得ず、毎晩夜中の3時、4時まで、全ての仕事をほったらかしにして、ドラマを観て過ごすことになる。それ以前は、毎晩1作、映画を観て過ごしていたのだが、映画を見る時間がなくなってしまった。

 いや、映画を観る気がしなくなってしまったのである。前述の2作を見終わり、ちょっとしたロスト感覚を味わいながら、そろそろ映画に復帰しようと思ったのだが、なんだか映画では物足りない気がして、その後もいくつも韓流ドラマを見続ける結果になった。
 ざっと、リストして見る。

『愛の不時着』
『梨泰院クラス』
『みんなの嘘』
『ミッション・ボディーガード』
『アルゴン~隠された真実~』
『傲慢と偏見』
『ボイス~112の奇跡~』
『ボイス2』
『ミスター・サンシャイン』
『君の声が聞こえる』
『秘密の森』
『ピョン・ヒョクの恋』
『ベートーベン・ウィルス』
『椿の花咲く頃』
『彼女はキレイだった』
『シカゴ・タイプライター~時を越えてきみを想う~』
『シグナル』
『愛の迷宮~トンネル~』

 まだいくつかあったが、思い出せない。途中で断念した作品もいくつかある。およそ20本の韓流ドラマを観るのに要した時間を考えると、40,000分、およそ670時間、私はテレビモニターの前に座っていたことになる。

 集中的にこれだけの時間を奪われたのは、麻雀と空手を別にすれば、他に思いつかない。それだけ韓流ドラマには私を惹きつけるものがあるということだろう。作品のクオリティの高さは勿論だが、私の場合、「李朝末期の日帝統治の空気」「復讐に対する韓国人の考え方」「家族への愛着」が色濃い作品に、特に惹きつけられたようである。このモチーフには朝鮮の人々の心理を解読するための幾つものヒントが散りばめられている。

 特に、父母に対する濃密な心情は、欧米の映画やドラマに比べるとその差が際立っている。これは、人口学者エマニュエル・トッドが言うところの、家族システムの違いによるのかもしれない。韓国の伝統的な家族システムは権威主義的直系家族というもので、同型の家族システムを持つ日本人には馴染みのあるものである。権威主義的直系家族では長子相続の伝統があり、長男は結婚して家族と同居し、家督を引き継ぐ。

 同じ家族システムをヨーロッパに探すと、現在のドイツ、スウェーデン、オーストリア周辺に分布しているが、英米はこの権威主義的直系家族とは異なる絶対核家族というシステムが伝統的で、長男といえども、結婚すれば両親とは別居するのが普通である。もちろん、最近ではこの伝統的家族システムの違いは、グローバル化や文化の進展の影響でかつてほど明瞭ではなくなり、どこの国も似たようになっているが、心理の奥底にはこの伝統的家族形態の価値観が今でも残っている。

 それは、共同体の作り方によく現れる。会社や国家といった幻想の共同体の規範になっているのは、伝統的な家族システムが持っていた価値観である。これは一つの仮説に過ぎないかもしれないが、実際の会社や国家のあり方を見ていると非常に説得力のある仮説であることがご理解いただけるだろうと思う。

 ロシアや、中国、ベトナム、キューバといった社会主義国家、あるいはポスト社会主義国家は、すべて共同体家族という伝統的家族形態の地域から生まれており、例外がないというのも驚くべき事実である。共同体家族とは、一人の強大な権力者と、平等な兄弟縁者で構成される家族システムで、大家族を作る。その家族システムに似せて国家を構想すると、それはほとんど地上に現れた社会主義国家と同じである。自己責任、自由主義を旨とする新自由主義国家が、英米など絶対核家族システムの国に広がったのも同じ理由である。実に、国家はイデオロギーによって作られるのではなく、伝統的な家族システムによって作られてきたという仮説がここに成り立つのである。

 話を戻そう。韓国のドラマにあらわれる会社や地域共同体や家族のモチーフは、ほとんどすべて権威主義的直系家族の価値観が色濃く反映されており、英米化と核家族化が進行した日本人にとっては、忘れ去った親たちの世代の価値観を思い出させることになるのである。

 これは一例で、土下座に対する考え方なども、東アジアに独特なものであり、韓国においては土下座はほとんど最終的な屈服を意味するようである。『梨泰院クラス』で、主人公のパク・セロイはかつて屈辱を味合わされた権力者で大金持ちのチャン会長に、ビジネスで挑戦し、ついにその会長を土下座させる。ここで、ヒエラルキーの逆転が起きるのである。ここでは、土下座は単なる謝罪ではなく、全面的な屈服を意味している。葬儀で、参列者が土下座するのも同じ理由であろう。
「おじぎ」の文化の源流に、ヒエラルキーの絶対性と屈服が伏流していることを、日本人はもう忘れている。

 15~20話の連続ドラマはほとんどはテレビで放送されたものなので、視聴者を飽きさせないためには、毎回山場を作り、切れ場を作って次回につなげる必要がある。一回あたりの平均が90分とすると、20話だと1,800分になる。30時間である。文字に起こせば、十分に長編小説に匹敵する長さである。
 これだけの長尺になると、その全てに緊張感を漲らせるというわけにはいかず、話が横道にそれたり、ダレできたりすることもある。そうした欠点を補うための仕掛けも十分に考慮されており、総じて高いクオリティを維持している韓流ドラマメーカーたちに敬意を払わずにはいられない。

映画はドラマに対抗できるのか。
 これだけ韓流ドラマに惑溺した私は、こんな疑問を抱くようになった。映画とドラマの差は尺の違いだけなのだろうか。

 私としては、どれだけドラマに惑溺しようとも、映画に対する愛着を捨てるわけにはいかないのだ。どこまでいっても、私は映画の味方でありたいのである。ドラマと映画は別物かと言われると、その差はほとんどなくなっていると言わざるを得ないのだが、そうだとすれば、映画でしか表現できないもの、2時間という時間の中に世界を閉じ込め、そうすることで世界を開示するような表現方法が持つ優位性はどこにあるのだろうか。

 これぞ映画と言われるいくつかの作品をベースに、この疑問について考察してみよう。ここで取り上げるのは『チョコレートドーナツ』(トラヴィス・ファイン/2014)、『もう終わりにしよう。』(チャーリー・カウフマン/2020)、『スウィング・キッズ』(カン・ヒョンチョル/2020)の三本である。ほとんどランダムに取り上げた三本だが、これらの映画には、映画でなければ表現できないものが含まれているように思える。ドラマにできないことはないが、やはり2時間の映画でこそ、その真価が発揮できた作品である。

『チョコレートドーナツ』は、ゲイの男二人が、育児放棄された障害児を家族として育てるという映画である。つまり、社会的弱者と言われるゲイの男が、社会的弱者である障害を持つ子供と家族と作ろうとする。当然、彼らは様々な偏見、障害、妨害と戦うことになる。この作品は、実際にあった話を下敷きにしている。

『もう終わりにしよう。』は、内向的な男が自分の妄想の世界に入り込み、一人の理想の女性に出会い、葛藤しながら、妄想から抜け出すまでの魂の遍歴といった趣の難解映画である。

 そして、『スウィングキッズ』は朝鮮戦争下の捕虜収容所で、収容所のイメージアップのためにでっち上げられた米兵と北朝鮮人捕虜、中国人などからなく国籍出自混成のダンシングチームの物語。

 モチーフは、それぞれ差別、自己幻想、イデオロギーと芸術といった観念的なものである。これらの作品を、例えば30時間のドラマに焼き直すことはできるだろうかと問うてみる。その答えは、出来るとも言えるし、無理だとも言えるだろう。

ストーリーとナラティブ
 上記の三作品とも、30時間のドラマにすることは可能だろう。しかし、視聴者がついてこれるかどうかは疑問である。というのは、これらの映画作品が伝えようとしているのが、ストーリーの面白さ以上に、観念的な事柄をどれだけリアルな映像に落とし込めるのかというところに力点が置かれているように思えるからである。

 映画作品である以上、それが実験的なものでない限り、ストーリーというものはあるだろう。ストーリーとは、一言で言えば起承転結ということで、ドラマの場合は、「転」にどれだけの意外性があるのかが重要な要素になっている。まさか、こんな展開になるなんてと言うことを、視聴者は期待しながら見ている。同時に、ドラマの中で起きた出来事(起)は、ドラマの中で完結しなければならない。30時間も見続けてきて、さて、これからこの話はどうなるでしょうかと言う終わり方では視聴者は納得しないだろう。

 映画の場合は、少し違う。2時間と言う時間的制約を外れたところでも、映画は続いている。そもそも、映画は日常的時間を遮断した映画館という空間で、映画の中の時間に吸い込まれ、映画と共に呼吸し、思考するのである。そこで語られるのは、現実と地続きの物語ではなく、フィルムメーカーによって切り取られたフィルムメーカーによるナラティブである。ナラティブとは、起承転結のある物語ではなく、むしろ、「部分の語り」とでもいうべきものだろう。

 ストーリーの多くの部分は、この「語り」の外部にあり、観客は映画館を出て、現実の街を歩きながらその語りの続編を反復するのである。ストーリーは概ね、予定調和である。その時間の中で、完結しているのだが、ナラティブは完結していない。エンドマークが出てから、フィルムメーカーのナラティブは、観客のナラティブへと引き継がれる。

 優れた映画作品に出会うとはどういうことか。私の場合、映画の中での未完の出来事を何度でも、現実の時間の中で反復し、書き換え、上書きし、また見直すことへと誘うような作品のことである。

 その意味では、上記の三作品はいずれも、映画が終わったところから、もう一つのナラティブ、つまりは私のナラティブが始まるのである。
 漸く私は、最初の問いであるドラマと映画作品の違いについて朧げな輪郭を描くことができる。


「作品の歴史のばあい、それが偉大なものであるかぎり、後になってそれに与えられる意味はその作品に由来する。その作品がこれまでとは違った光の元で浮かび上がるとしても、その場面を開いておいたのはこの作品そのものなのであり、作品そのものが<おのれ>を変貌させて自分自身の続編に<なる>のである」


 これは、モーリス・メルロ=ポンティの絵画に関する言葉(『眼と精神』)だが、映画についても同じことが言えるだろう。二十代で見た映画を還暦が過ぎて見返せば、映画作品は別なものになっているかもしれない。二十代で見た映画の続編がそこにある。

 ドラマではこういうことは滅多に起こらない。
 そして、映画には、小津安二郎やジム・ジャームッシュの作品のように、2時間の間、出来事らしい出来事は何も起きないということがあるが、何も起こらないドラマはない。出来事が起こるのは、映画が終わって20年先になってからというような奇跡が、映画には起きるのである。

 私が、小津安二郎の戦前の作品を掘り起こして、ロケ時の旅を開始したのは、最初の上映から実に八十年の後であった。

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