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平尾 剛

平尾 剛/スポーツ教育学者

元日本代表ラガーマンが書き下ろす「スポーツは、だから面白いし飽きない」。 読めばもっと身体を動かしたくなる、面白いゲームが観たくなること必至。

第24回 アスリートの「社会的発言」

 スポーツのない生活がこんなに味気ないものだとは思ってもみなかった。

 ラグビーの国内リーグであるトップリーグはもとより、プロ野球やJリーグも今は試合が行われていない。その他のプロスポーツもその活動を停止している今は、テレビやネットを通じて流れてくるスポーツニュースが、いささか物足りない。野球もサッカーも、またラグビーでさえ、試合ごとにその動向を追うような熱心なウォッチャーではなかったにもかかわらず、である。

 また部活動においても、4月26日にはインターハイ(全国高等学校総合体育大会)の中止が決定し、4月28日には全中(全国中学校体育大会)もそれに続いた。5月20日にはついに夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)まで戦後初めての中止に至った。目標を失った生徒たちの気持ちを考えると、筆舌に尽くしがたい思いが湧いてくる。
 そこはかとなく漂っていたスポーツの気配が生活から消えた。

 それに替わって今はウイルスの気配が、そこかしこに充満している。
 本来スポーツは文化である。文化とは、いってみれば「人生の彩り」だ。命の次に大切なもの、それが文化である。
 社会生活を営む私たちの生活に、恵みをもたらすものとして文化はある。音楽も映画も、演劇も文楽も、たとえそれらがなくても生物として生き存えることはできる。だが精神を充足させることはできない。現代社会を生きる私たちには、心もからだもよろこぶ「文化的な生活」が不可欠なことは、今さら言うまでもない。

 ささやかな楽しみとして当たり前にそこにあったものがなくなり、あらためてその存在の大きさに気がついた。これまで私の人生に彩りを添えてきたもの、それはスポーツだった。
 この「モノクローム」な生活にピリオドが打たれる日が、待ち遠しい。

 そんなスポーツの祭典とされているのがオリンピック(以下五輪)である。
 ウイルスの感染が広がり始めた3月24日に、国際オリンピック委員会(IOC)は東京オリンピック・パラリンピック(以下東京五輪)の開催を来春以降に延期すると発表した。

 それより少し前の、巷間に開催を危ぶむ声が広がりつつあった3月初旬には、IOCおよび日本の首相は「完全な形」での開催にこだわる姿勢を崩さなかった。ウイルス蔓延という緊急事態にもかかわらず、ひとつのスポーツ大会に過ぎない東京五輪を強行開催しようとする態度には、各方面から批判の声が上がった。7月の開催を実現するために、感染者数を意図的に少なく見積もっているのではないかという噂も流れていた。噂の真偽は定かではないが、少なくとも国民のあいだでは国のウイルス対策への疑念が膨らんでいたことは確かだと思う。

 スポーツはあくまでも平時においてのみ、その文化的価値が認められる。でも今は、紛れもなく緊急時である。たかがスポーツに労力やお金をかけている場合ではない。限られた資源は喫緊の課題にそのすべてを注入すべきで、五輪の開催とウイルス感染の収束は、その規模からして同時並行で行えるわけがないはずだ。

 開催が延期されたことによって、ひとまず当面はウイルスの感染拡大阻止に集中できる。そこに然るべきリソースを投入すれば、外出の自粛を余儀なくされている現状から1日でも早く解放されるはずだという期待を抱くことができる。
 あまりの変わり身の早さに訝しみつつも、真っ当な判断が下されたことに胸を撫で下ろしたのが、私の偽らざる気持ちだった。

 ところが、である。
 延期が決定してまもなくの3月30日に、2021年7月23日に開幕することが決まった。組織委員会、IOC、東京都、政府がこの日程で合意したのである。
 思わず言葉を失った。ワクチンや特効薬も未開発で、感染が終息する見通しが立たないなかでの開催期日の決定は、希望的観測に基づく判断でしかない。どう考えても時期尚早ではないか。

 しかも、以前から懸念されていた猛暑下での開催である。暑熱環境を和らげるために、マラソン競技が札幌での実施に変更されたことを、まさか忘れたわけではないだろう。春への前倒しもできたはずなのに、なぜそれをしなかったのか。延期決定から1週間も経たずだから、時期をずらす検討すら為されていないように思う。「アスリートファースト」という言葉のむなしさを、私たちはまたもや実感することとなった。

 そしてなによりも、選手を含めてウイルス感染への不安を抱える人たちへの配慮が、決定的に欠けているように感じる。
 同日、米紙USA トゥデー(電子版)は「無神経の極み」だとしてIOCを批判した。「世界中が疾病と死と絶望に包まれている時に、なぜ日程を発表する必要があるのか」、「せめて暗いトンネルを抜けて光が見える時まで待てなかったのか」と、指摘している。

「無神経」と言われても仕方がないだろう。
 日本国内のみならず世界各国で感染者数が増加の一途を辿るなかで、なぜ早々に五輪の日程を発表する必要があったのか。自分や家族の生命が危険に晒されている人や、生活の基盤がその根底から崩されている人たちが抱えこんでいる大きな不安を、想像できなかったのだろうか。なりふりかまわず開催にこぎつけようとするその姿勢が、人々の胸に渦巻く不安という火に油を注いだことは想像に難くない。彼らの気持ちを逆撫でするようなこの決定に、またこれでスポーツを見る目が厳しくなると、私は肩を落とした。

 あくまでも開催ありきで事を運ぶこの姿勢は、なにも今に始まったことではない。
 2013年9月7日にブエノスアイレスで行われたIOC総会で、安倍晋三首相は「アンダーコントロール」、つまり放射能汚染は完全に制御できているという意味の言葉を口にした(実際には、今も制御どころか今後の見通しすら立っていない)。公平性を重んじるはずのスポーツの国際大会が、事実に基づかない言明から始まっていることの滑稽さを、私はどうしても見過ごすことができない。

 これ以降も、「スポーツの国際大会」にはふさわしくない事実が次々と明るみに出てきた。
 新国立競技場やエンブレム策定をめぐる不透明な混乱、当時の日本オリンピック委員会(JOC)会長の賄賂疑惑とその後のIOC委員辞任、競技施設周辺の過度なジェントリフィケーション(都市再開発)、突貫工事による作業員の事故やストレスによる自殺、膨らみかさんだ税金の投入など、問題は山積みである。
 にもかかわらず五輪は、こうした問題を放置したまま開催に向けてその歩みを止めていないように見える。

 なかでも、社会的に弱い立場に置かれている人たちを蔑ろにしているような点は、スポーツの世界に身を置く人間として看過できない。
 たとえば五輪関連施設の建設を進めるために立ち退きを余儀なくされた人たちが、慣れ親しんだ街での生活を奪われる。時間をかけてでき上がった地域での人間関係も、ささやかな幸せを感じる居場所としての飲み屋や喫茶店も、無きものとなってしまう。東日本大震災など自然災害による被害を受けた人たちは、建築資材や建設作業員の不足によって復興の遅れという憂き目に合っていると聞く。

 現在の五輪そのものが本質的に抱えるこれらの諸問題がウイルス禍によって覆い隠されないように、この点は強調しておきたい。
 大事なことなので繰り返す。五輪は、社会的に弱い立場の人への配慮が決定的に欠けていると思う。

 ウイルス禍の収束に寄与するという点では、3月末に下した開催延期は妥当な判断だったといえる。だが、ここまで述べてきたような五輪が抱える本質的な諸問題を鑑みれば、ウイルスの感染が拡大するよりはるか以前に、五輪の開催そのものを見つめ直す必要があった。少なくとも私にはそう思えてならない。

 現在進行形の五輪開催をめぐる動きを一見すれば、ウイルスが東京五輪を駆逐しようとしているようにみえる。
 だが忘れてはならないのは、このウイルス禍は東京五輪について私たちが気づいていなかったことを白日の下に晒すきっかけに過ぎず、五輪のあり方をその本質から問い直すためのトリガー(引き金)だということである。ウイルス禍を拡大させるリスクももちろんそうだが、社会的弱者の生活を脅かすかたちで社会を毀損し、ひいては取り返しのつかない傷を追わせる蓋然性が、五輪を強行的に開催することにはあるということを、忘れてはならないと思う。


 ちょうどこの原稿を書いている最中に、ある記事をみつけた。4月27日(月)付の朝日新聞(電子版)に掲載された、東京五輪は中止を選択肢に入れて検討するべきだという趣旨のコラムである(後藤太輔『「スポーツを文化にする」ために 五輪を中止し、苦しい人支えて』)。

 思わず目を疑った。これまで五輪を批判する内容の記事は、東京新聞などの地方紙でしか目にしたことがなかったからだ。

 コラムを書いた後藤記者は、「中止を勧めるのはつらいが、スポーツを文化にするのに何が必要かを問い直す機会だと考えたい」と述べ、「生きる意欲を失いそうな人を支える可能性をスポーツが示すことができるなら、応援したいという人は、もっと増えるはずだ」と主張する。
 中止にまで踏み込み、文化的な価値を高めることでスポーツを応援したい人たちが増えることを期待する内容に、私は同意する。

 そしてなによりもこの記事が、東京2020オリンピックオフィシャルパートナーである朝日新聞に掲載されたことに大きな意味がある。
 五輪に対する批判がスポンサーサイドから発信された。
 東京五輪へのまなざしは確実に変わりつつある。

 ならばと、私はある期待を抱く。そろそろスポーツ界からもこうした声が聞こえてくるのではないか。とくに当事者である現役アスリートからの率直な意見が届くのではないかと。
 現役アスリートは今のこの事態をどのように捉え、感じ、考えているのだろう。私はずっとそれが知りたかった。

 東京五輪の延期決定には、世界陸連のセバスチャン・コー会長のみならずカナダやアメリカ、ヨーロッパの一部の国々の現役アスリートや競技団体からの声が影響を与えたといわれている。

 私の知るところでは、フェンシングのアメリカチャンピオン、レース・インボーデン選手が、「アスリートに関して、五輪の扱いが少し不安になってきた。われわれは五輪が開催されると言われ続けている。アスリートの準備や精神衛生よりも、五輪を続けることの方が重要なのだと認識し始めている」と発言している。またリオ五輪女子棒高跳び金メダリストで、ギリシアのカテリナ・ステファニディ選手は、「あなたたち(IOC)は4ヶ月後の私たちではなく、きょう今現在の私たちを危険にさらしている」と述べ、フェンシング男子でドイツ代表入りを決めているマックス・ハルトゥング選手に限っては「予定通り7月24日に開幕する場合は出場を辞退する」と、退路を断つという覚悟をもって発言している。

 つまり海外のアスリートは声を上げている。だが、日本ではどうだろう。緊急時を耐え忍ぶための励ましのメッセージを目にすることはあっても、もう少し踏み込んだ社会的な発言は寡聞にして聞いたことがない。
 なぜなのだろう。

 実際には発言しているが、メディアがそれを伝えないだけだという反論もあろう。所属協会によって箝口令が敷かれている、あるいは権力に対する忖度や自粛も考えられる。ただなにも考えていないだけ、というのもあるかもしれない。置かれた情況に言い訳をせず、すべてを受け入れた上でパフォーマンスを最大化することを使命とするのがアスリートだ。だから社会のあり方に対してなんらかの提言を行うことを言い訳だと捉え、無意識的にブレーキをかけるという心理上の問題もあろうかと思う。

 でも、それでいいのだろうか。
 試合で結果を残すことだけがアスリートの使命ではないだろう。アスリート自身もおそらくそれを自覚している。だからこそ、この緊急事態に自粛生活を耐える人たちへのエールや運動不足を解消する方法、また子どもたちを元気づけるメッセージを発信している。試合や大会が行われない今はパフォーマンスを見せることができない。だからそれ以外の社会的な役割を積極的に担おうとしているのだ。自分には社会に及ぼす影響力がある。この自覚があるからこそ、社会に向けて積極的にメッセージを発信しているはずである。
 ここに社会的な発言を加えても、なんら問題はない。現に国外ではそうした声を発するアスリートがいるのだ。

 東京五輪を開催することによるウイルス感染への不安はないのか。
 ウイルス対策が後手に回る政府に対してなにか言いたいことはないのか。
 社会における五輪の使命やそれが果たす役割をどのように考えているのだろう。

 難民問題などを取材するフォトジャーナリストの安田菜津紀氏は「『写真家がなぜ政治に発言?』と時折聞かれる。似たような言葉が溢れている。『ミュージシャンがなぜ』『俳優がなぜ』と。そもそも、政治的発言をタブー視すること自体が、とても“政治性”を帯びたものだということに気づきたい」と4月28日のSNSで発信している。

 アスリートのあいだにも「政治的発言のタブー視」が広がっている。政治的な色がつくのを避けるために社会的な発言を差し控えるのが、今日の社会を生きる上では賢明な身の来し方である。スポーツ界のみならず日本全体が、そう暗黙のうちに了解している。でも安田氏が鋭く指摘しているように、「タブー視」自体が「政治性を帯びたもの」なのだ。このイデオロギーが政治権力側にとってまことに都合がよいことに、そろそろ気がつくべきだと思う。

 現役のアスリートに社会的な発言を望むのは酷だというのなら、まずは元アスリートから始めてみてはどうだろう。社会的な発言をしてもかまわない、いや積極的にするべきだという雰囲気が醸成されれば、発言に踏み切る現役アスリートも増えるのではないだろうか。セカンドキャリアを生きる元アスリートから始めて、アスリートが社会的な発言を厭わなくなれば日本のスポーツは変わる。スポーツはその本来のあり方、つまり文化に「なる」はずだ。

 奇しくもこの原稿を書いている最中に、検察庁法改正案について各界の著名人が挙って意見を表明し、世間を賑わせている。ここにきて日本社会には、社会的な発言に踏み切るムードができつつあるといえるだろう。

 商業主義および勝利至上主義が蔓延しているスポーツは今、岐路に立っている。カネという魔物からスポーツを守り、それをふたたび文化にするために、今こそスポーツ界は声を上げなければならないと私は思う。

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