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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第21回 モダニズム心斎橋ふたたび
“大大阪時代”へのタイムマシーン・
大丸心斎橋店

“あんな美しい百貨店は、世界中どこにもおまへんで”

 これは、大阪文化研究の泰斗であり、小学校の大先輩としても尊敬する肥田晧三先生(ひだ・こうぞう/1930〜)が、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した大丸を讃えておっしゃった言葉である。ご講演で心斎橋のお話になると、いつも肥田先生はそう語られるし、私をはじめ聴衆みんな、ほんとうにそう思う。外観も内装も華麗で「アールデコの宝石箱」とも呼びたい百貨店である。

 この9月20日(金)、大丸心斎橋店本館がグランドオープンした。ホームページを見ると、旧建築の採取可能な部材は再利用し、困難な部材は原型を型取りして再現し、継承すべき空間を再構築したと自負している。建て替えではあるが、ヴォーリズ設計の建物への敬意から保存に苦心したことがうかがえる。

心斎橋筋西側から。高層階部分がなければ、かつての大丸がそのまま復活したかのよう
心斎橋筋西側から。高層階部分がなければ、かつての大丸がそのまま復活したかのよう

 グランドオープンは、このコラムの入稿後なので、新館内部の様子には触れられないが、大大阪モダニズムを象徴する文化財としての香気が、「Delight the World 世界が憧れる、心斎橋へ。」をコンセプトに大きくなった地上11階、地下3階の新店舗に伝えられていることに期待したい。

 今回は、絵を掛ける人のキモチというよりも、街の中に出現した、それ自体が“美術館”ともいえる大丸旧館の“記憶”の世界にタイムトリップしてみよう。


心斎橋での三百年

 享保2年(1717)、大丸は呉服店[大文字屋]として伏見に創業し、早くも享保11年(1726)に心斎橋筋に進出して、[松屋]の屋号で現金正札販売をはじめた。享保といえば、時代劇の「暴れん坊将軍」で知られる徳川吉宗の時代。このときから心斎橋店は現在地を動いていない。三百年間、心斎橋筋に面した〝あの場所〟で営業し続けている。幕末頃の錦絵揃い物『浪花百景』にも[松屋]の暖簾をかかげた店舗が描かれた。

 近代になると、以前紹介した北野恒富(1880〜1947)の壁画がある木造新館が大正2年(1913)に落成している。写真で見ると内装は、いわゆる「セセッション(分離派風)」である。大正7年(1918)には、ヴォーリズ建築事務所による木造四階建ての洋館も竣工した。

 しかし、大正9年(1920)、大丸は火災で全焼し、同じヴォーリズ設計の、われわれがよく知る華麗な大丸心斎橋店が建設される。工事は何期かに分けて進められ、大正11年(1922)、新店舗第1期工事が終わり、大正14年(1925)には、第2期工事によって、孔雀のテラコッタのある心斎橋筋の正面入口などが竣工する。

筆者が改修以前に向かいの喫茶店2階から撮影した孔雀(いろいろ写り込んでいますが)。周辺の飾りも面白い
筆者が改修以前に向かいの喫茶店2階から撮影した孔雀(いろいろ写り込んでいますが)。周辺の飾りも面白い

 テラコッタは当初、火災からの復活を象徴するフェニックスの図案で海外に依頼したが、到着したのは孔雀だったという話が伝えられる。これが心斎橋筋側の正面入口にある豪華な孔雀の像で、大丸のシンボルが、ピーコックとなるのはこのテラコッタに由来する。

 孔雀の羽の下をくぐって大丸に入った誰もが目を見張ったのが、1階から6階までの壮麗な吹き抜けだったろう。横に伸びる商店街が、いきなり垂直に立ち並んだ感じである。後に売場拡張のために床が張られ、吹き抜けは無くなるが、『大大阪画報』(大大阪画報社、1928年)に写真が掲載され、吹き抜けのイメージが大丸のPR誌やパンフレット、景品の双六などにも登場する。

買い物客の度肝を抜いた吹き抜け。『大大阪画報』(大大阪画報社・1928年)より
買い物客の度肝を抜いた吹き抜け。『大大阪画報』(大大阪画報社・1928年)より

 屋上の遊戯場には、小さな〈動物園〉〈植物園〉〈水族館〉や巨大な鳥籠も設けられた。洋画家・小出楢重(1887〜1931)が随筆で「私は子供の如く、百貨店の屋上からの展望を好む。例えば大丸の屋上からの眺めは、あまりいいものではないが、さて大阪は驚くべく黒く低い屋根の海である。」(「上方近代雑景」1928年)と語ったのも、この第2期工事で誕生した大丸である。劇場の緞帳には、楽器を奏でる6人のミューズがデザインされた。

大丸の劇場。絵葉書より(個人蔵)
大丸の劇場。絵葉書より(個人蔵)

 孔雀の左右に並ぶ心斎橋筋の大きなショーウインドーケースのディスプレイは、金山新六ら大丸宣伝部のデザイナーの手になった。昭和2年(1927)の「メートル法発布記念 度量衡器と計量器の特売」「メートルデー」など、構成主義的なデザインでモダンである。

「メートルデー」にちなんだ大丸心斎橋店のショーウィンドー・ディスプレイ(橋爪節也『モダン心斎橋コレクション−メトロポリスの時代と記憶』より)
「メートルデー」にちなんだ大丸心斎橋店のショーウィンドー・ディスプレイ(橋爪節也『モダン心斎橋コレクション−メトロポリスの時代と記憶』より)

 心斎橋店の拡張は、大阪市によるダイナミックな「大大阪」建設と並行して進んでいく。都市の基本軸となる御堂筋拡幅や地下鉄建設にあわせ、昭和8年(1933)の第3期工事で大宝寺町の通りの北西角に出現した「水晶塔(クリスタルタワー)」は、御堂筋を走る自動車からや通行人が見上げることを意識する。この御堂筋側の竣工で、大丸心斎橋店は全館完成した。

御堂筋北西側(左)にあるクリスタルタワーの存在を際立たせた全館完成のパンフレット(筆者蔵)
御堂筋北西側(左)にあるクリスタルタワーの存在を際立たせた全館完成のパンフレット(筆者蔵)

 昭和9年(1934)正月の配りもの「大丸遊覧双六」では、エレベーターで近道したりしながら、全館完成した店舗をめぐり、8階の洋食堂・和食堂がゴールである。

一番下に地下鉄の車両、中央に吹き抜け。最上階の左右にある「上り」が洋食堂と和食堂。当時の子どもは大喜びしたであろう(橋爪節也『モダン心斎橋コレクション−メトロポリスの時代と記憶』より)
一番下に地下鉄の車両、中央に吹き抜け。最上階の左右にある「上り」が洋食堂と和食堂。当時の子どもは大喜びしたであろう(橋爪節也『モダン心斎橋コレクション−メトロポリスの時代と記憶』より)

 昭和10年(1935)には、「梅田―大丸 地下鉄開通記念メリーゴーラウンド」を作成する。連続テレビ小説「芋たこなんきん」(2006年秋〜07年春放送、原作・田辺聖子)のオープニング・タイトルのヒントとなったペーパークラフトである。タイトルが地下鉄の「梅田―心斎橋」駅間ではなく、「梅田―大丸」であるのは、前の年に心斎橋駅と大丸地階が直接つながったことの記念である。

大丸の左には工事中のそごう百貨店が描かれる。手前の橋は長堀川にかかる「新橋」。ぐるぐる回すと中之島の朝日ビルディングや大阪城なども現れる。背後に額装されているのがオリジナルで、手前はそれをコピーして組み立てたもの(筆者蔵)
大丸の左には工事中のそごう百貨店が描かれる。手前の橋は長堀川にかかる「新橋」。ぐるぐる回すと中之島の朝日ビルディングや大阪城なども現れる。背後に額装されているのがオリジナルで、手前はそれをコピーして組み立てたもの(筆者蔵)

 御堂筋側正面の幾何学パターンや、風除室天井、エレベーター周囲の美しさもさることながら、ウサギとカメや「イソップ物語」の狐と鶴の話など、細部に動物意匠がとりいれられる。こどもを連れてきた親御さんらは、あれを見なさい、こんな物語があるんだよ、と話して楽しい時間を過ごしたのだろう。 外壁にも様々な鳥の彫刻が発見できる。

御堂筋側入り口から店内に入る「風除室」天井の華麗なアラベスク。右上の大丸マークの横にはウサギが跳ね、その下にはカメが……凝りまくってます
御堂筋側入り口から店内に入る「風除室」天井の華麗なアラベスク。右上の大丸マークの横にはウサギが跳ね、その下にはカメが……凝りまくってます


大大阪時代へのタイムマシーン−大阪市中心標の思い出

 大丸には、私にも子どもの時からの思い入れがある。建築塗装店を営んでいた私の実家は、旧大阪市南区竹屋町(現・中央区島之内)にあった。家の前の東西の通りを「清水町筋」と呼び、これを真っ直ぐ西に歩くと大丸本館の南東の角に出た。徒歩10分、距離は800メートルほどだ。

昭和35年(1960)家の前で従兄弟と筆者(2歳)。隣は料亭の[南地荘]、通りは清水町。まっすぐ進むと堺筋を越えて南警察、そして心斎橋の大丸になる
昭和35年(1960)家の前で従兄弟と筆者(2歳)。隣は料亭の[南地荘]、通りは清水町。まっすぐ進むと堺筋を越えて南警察、そして心斎橋の大丸になる

 春分と秋分の夕方、家の前に出ると、真西にまっすぐ延びた通りの向こう、シルエットとなった大丸本館と南館の間に大きな太陽が沈んだ。
 日曜日の夕方など、豪華壮麗な大丸の建物は、いつも圧倒的な存在感で、「心ブラ(心斎橋界隈をぶらぶら歩くこと)」に出た私たち一家を迎えた。心斎橋のレストランや、時には道頓堀に抜けて家族で食事をするのである。大阪人にとって大丸は、戦後も「大大阪時代」へと運んでくれるタイムマシーンだった。

 そして、我が家の通りの延長線上にある大丸本店の南東の角は、「大阪市中心標」があった場所でもある。
 大大阪誕生と同じ大正14年(1925)、市域拡張で市の中心点が移動したことを理由に、大阪時事新報社が「大阪市中心標」を市に寄付した。その場所が大丸東南角である。緯度経度を測定した地理的な中心ではない。「心ブラ」の市民のために可視化された象徴としての大阪の中心である。

画面中央やや左下寄りに、自転車と並んであるのが「大阪市中心標」。人が歩いている右側は心斎橋筋(橋爪節也『モダン心斎橋コレクション−メトロポリスの時代と記憶』より)
画面中央やや左下寄りに、自転車と並んであるのが「大阪市中心標」。人が歩いている右側は心斎橋筋(橋爪節也『モダン心斎橋コレクション−メトロポリスの時代と記憶』より)

 同じ年に大丸は、第二期工事で例の孔雀のテラコッタのある店舗を心斎橋筋に竣工させている。「大阪市中心標」は、このときの「大丸呉服店新館御案内」にもイラストで描かれる。
「大大阪」の中心に、中之島や北船場など政治経済の中心ではなく、庶民的な繁華街を選んだことも大阪らしい。ターミナルには電鉄系百貨店も出現しつつあったが、心斎橋筋こそが大阪繁栄の中心であることを明快に示したモニュメントである。

デフォルメしすぎぐらいに「中心標」を強調した『大丸呉服店新館御案内』の表紙。開くと第二期工事で完成した店舗の中が描かれている(筆者蔵)
デフォルメしすぎぐらいに「中心標」を強調した『大丸呉服店新館御案内』の表紙。開くと第二期工事で完成した店舗の中が描かれている(筆者蔵)

 ただ、残念ながら「大阪市中心標」は戦時中に供出され、オリジナルの中心標を私は見たことはない。それに変わるものとして、戦後は「平和の女神像」がこの位置に建てられた。付近に生まれ育った私は、小学生であった昭和40年代、女神像の場所が大阪の中心であると親に教えられ、深く考えずに長くそれを信じていた。

 私の母校(旧・大阪市立道仁〈どうにん〉小学校、統合で現・南小学校)では、朝礼で校歌とともに「大阪市歌」を歌った。歌詞の「生気巷(ちまた)にみなぎりて/物みな動く産業(なりわい)の/力ぞ強き大阪市/力ぞ強き大阪市」とか、「東洋一の商工地/咲くや木の花 魁(さきが)けて/四方にかおりを送るべき/務(つとめ)ぞ重き大阪市/務ぞ重き大阪市」などに、大阪に住む市民としてのプライドを感じた。

 小学校の社会科の授業では郷土史の副読本や地図もあって、面白かった。地図には、道修町(どしょうまち)や丼池(どぶいけ)、松屋町(まっちゃまち)などの問屋街が図示されていた。そんな子ども時代の記憶が、大阪検定テキストの『大阪の教科書』(創元社)の「美術」の部分を執筆させているのだろう。現代では、どのように地域の歴史を教えているのだろか。

 それに、現在の大阪人の精神を支える「中心標」にあたるものは何か。大阪城天守閣や通天閣を大阪市の中心をあらわすシンボルと呼ぶには違和感がある。「中心標」を継承した「平和の女神像」は後に戎橋北詰に移され、その後、再び移動したので、シンボルとしての「中心標」は失われたままの気がする。


モダニズム心斎橋ふたたび

 家が近かっただけではない。学芸員時代に私は、心斎橋筋についての展覧会も企画した。

 平成17年(2005)に開催された“大大阪”誕生80年記念「モダニズム心斎橋 近代大阪/美術とシティライフ」展である。会場は、大阪市制百周年記念事業として中之島に建設が予定されていた大阪市立近代美術館(仮称)計画の遅れから、長堀通に面した旧出光美術館(ナガホリ出光ビル、大阪市中央区南船場)を借りて開設されていた「大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室」である。「モダニズム心斎橋展」は、大阪市教育委員会、財団法人大阪都市協会、産経新聞社が主催した。

 近代の大阪は、東京や京都のような有力な官立公立美術学校がなく、強力な画壇を形成しなかったが、逆に“大阪イズム”の反映というべき経済都市固有の文化芸術のあり方があった。
 心斎橋をテーマにした展覧会は、平成9年(1997)に「心斎橋筋の文化史展」が大丸で開かれているが、「モダニズム心斎橋展」は、都市生活にからめながらも美術に特化し、画家や美術団体にもふれながら、“街”の美術の表情を読み取ろうとした企画である。

 明治の鉄橋・心斎橋の錦絵ではじまり、大丸、そごう、髙島屋などの百貨店、竹下夢二の版画も販売した趣味の書店・柳屋や、丹平ハウスの赤松洋画研究所、丹平写真倶楽部、河内洋画材料店などの作品や資料を展示した。
 目玉となった展示品が、昭和10年(1935)完成した村野藤吾設計の旧そごう大阪店のエレベーター扉である。セントルイス万博で銅賞を獲た漆芸家・島野三秋(1877~1965)による螺鈿(らでん)蒔絵の花鳥画の扉で、屏風形式にあらためられて保管されていたものを、展覧会場の正面に飾った。

島野三秋による、豪華極まりない旧そごう大阪店エレベーター扉の螺鈿装飾。2枚でエレベーター1基分である(橋爪節也『モダン心斎橋コレクション−メトロポリスの時代と記憶』より)
島野三秋による、豪華極まりない旧そごう大阪店エレベーター扉の螺鈿装飾。2枚でエレベーター1基分である(橋爪節也『モダン心斎橋コレクション−メトロポリスの時代と記憶』より)

 溝口健二の映画『浪花悲歌』(1936年、主演・山田五十鈴)では、竣工したたばかりのそごう店内でロケをし、パーラーのほか、この美しいエレベーターが稼働しているシーンが映されている。

 心斎橋筋界隈の“街”そのものも屋外展示場に位置づけた。華麗な大丸の装飾を切り取って美術館に展示することは不可能だが、付近には、三木開成館、農林会館、をぐらやビル、地下鉄心斎橋駅など、大大阪時代の近代建築や施設も多い。美術館で散策マップなど情報を提供し、美術館を出た後、展示室をめぐる感覚で大丸に足を運んだ来館者も多かった。いわゆるエコ・ミュージアムである。

 本格的なカタログではないが、共催の大阪都市協会が月刊誌『大阪人』2005年2月号で特集「モダニズム心斎橋」を刊行し、協賛の心斎橋筋商店街のホームページには、「心斎橋行進曲」がアップされ、視聴することができた。

「心斎橋行進曲」は、御津青年団心一分団のモダンな表紙の楽譜だけが残されていたものである。心一分団とは、地域の青年団の心斎橋筋一丁目の分団だろう。「ジャズよ尖端よ心斎橋」の歌詞にも時代が横溢する。

「心斎橋行進曲」の楽譜。長堀川(現在の長堀通)にかかるかつての心斎橋は重厚でスタイリッシュだった(個人蔵)
「心斎橋行進曲」の楽譜。長堀川(現在の長堀通)にかかるかつての心斎橋は重厚でスタイリッシュだった(個人蔵)

「モダニズム心斎橋」展には、親子三代そろっての来館者も多かった。年配の方が、はじめて会った若い人たちに当時の思い出を語り、質問に答える光景も見られた。展示資料にある店の隣が私の家でした、といった懐旧の念から5回以上来館した老婦人もおられ、モダンな時代に心斎橋で青少年期を過ごした人たちと、それを知らない若者が自然に交流した。

大正11年(1922)、第一期工事で竣工した当時の大丸呉服店(東側から)。心斎橋筋に面した南半分だけが建てられ、北側はまだ出来ていない。当時の絵葉書より(筆者蔵)
大正11年(1922)、第一期工事で竣工した当時の大丸呉服店(東側から)。心斎橋筋に面した南半分だけが建てられ、北側はまだ出来ていない。当時の絵葉書より(筆者蔵)

 公的に開催された展覧会という場でこそ、心斎橋を中心とした都市文化が万人に開かれて検証され、オーソライズされる。大阪の文化に関心があっても、単なる趣味や旧住人の感傷と思い、語る価値があるのか自信がなかった人たちも、美術館での開催で、個人的な思い出を超えた「公共財産」としての“記憶”であることが、はじめて保証された。

 展示されたのは絵画や彫刻、工芸、デザインだけではない。“街の記憶”そのものが象徴的なかたちで展示されたのである。それは展覧会という場を設けたことで、次世代へと伝えられることになった。


法事としての展覧会

 世界の名作を静かな環境で鑑賞できる展覧会もあるが、この「モダニズム心斎橋展」の会場は、とにかくやかましかった。大阪ガスエネルギー・文化研究所発行の『情報誌CEL』Vol.76「都市のオルタナティブ・ツーリズム」(2006年)に書いたのだが(拙稿「街の記憶へのタイムトラベル−《モダニズム心斎橋》展とは何だったか−」、同誌ホームページで読めます)、この展覧会での体験から、美術館の企画展には、名作展とはタイプの異なる肉親や親戚の「法事」のような展覧会があることが分かった。

「モダニズム心斎橋展」という展覧会そのものを、大正時代に生まれた祖父の「法事」に見立てるならば、昭和10年代に生まれた息子は、父が厳格で、終戦後の復興期にどんなに苦労したかを述懐するかもしれない。故人の兄弟や悪友は、若い時に彼がモダンな遊び人であったことを、失敗談をまじえて可笑しく話すだろう。

 高度成長期に育った孫たちは、お小遣いをくれた優しいお祖父ちゃんの思い出で盛り上がるかもしれない。生前の故人に会えなかったひ孫達は、そんな曾祖父の性格やしゃべり方、容貌までも自分たちが引き継いでいることを、NHK「ファミリーヒストリー」の出演者のように、驚きながらも納得し、実感するかもしれない。それが「モダニズム心斎橋展」だった。

大丸呉服店の会報誌『だいまる』大正15年(1926)8月号の表紙と裏表紙。実に洒落ている(筆者蔵)
大丸呉服店の会報誌『だいまる』大正15年(1926)8月号の表紙と裏表紙。実に洒落ている(筆者蔵)

 しかし、大阪では、大阪での過去の美術を検証する“法事”的な展覧会は、あまり開催されていない気がする。採算性を絶対視すると、大阪関係の企画展は集客力が乏しくて開催が難しくなる。しかしまた、大阪に関する回顧展がないかぎり、どんな有名な画家でも忘れ去られてしまう。

 東京や京都の大家は、全国の美術館が再検証する企画展を開催してくれるが、大阪の画家は、当の大阪で展覧会を開催しないかぎり他所では開かれない。この悪循環は、現代の大阪の文化全般にも言えることなのだろう。

「モダニズム心斎橋」展から半年後の2005年9月、そごう心斎橋本店の新店舗の開店記念展「心斎橋物語―煌めくモダニズム―」が、大阪都市協会と毎日新聞社主催で開かれた。
 新店舗の宣伝には、女優宮沢りえを起用し、三秋のエレベーターの扉のデザインに、昭和10年の新館オープンのキャッチコピー「お遊びに、お買い物に」を組み合わせた広告がポスター、チラシとなり、テレビでも放送された。

 展覧会の企画に私も関わり、図録がわりには拙著『モダン心斎橋コレクション―メトロポリスの時代と記憶―』(国書刊行会)が刊行された。「心ブラ」をたのしむ視線で編集し、グラフィックを中心に昭和初期の心斎橋筋を書物の中に再現した。当時の音楽や音を附録CDとして視聴覚に訴えた。

 大丸ミュージアム心斎橋では、これと同時開催で、「パリ・モダン一九二五―一九三七~エコールド・ド・パリ&アール・デコの世界~」が開かれた。心斎橋の二大百貨店で、モダニズムの時代が取りあげられたのである。大丸のチラシには、「美の回廊・心斎橋のモダンライフ」として豪華な建物の紹介記事も掲載されている。


ミナミだから可能なこと

 ここでひねったことを述べれば、こうした“法事”的な展覧会が可能なのは、大阪でもミナミだからかもしれない。たとえば、JR大阪駅を中心とした梅田界隈の都市文化の展覧会は、あんがい出来ないだろう。そこで語られるべき、懐かしい歴史ある大阪とは何だろうか。

 大丸のみならず、村野藤吾の名作は建て替えてしまったが展覧会当時のそごうの関係者は、誰もが自社の歴史や建物の文化財的価値、大阪における重要性を理解していた。そこには大阪の歴史を支えてきた地域のプライドがあったように感じる。

 しかし、キタの人々には叱られるかもしれないが(スムフムラボもそうでしたね、すみません)、近代の梅田の文化史的展覧会をしたとしても、現代人をどれだけ魅了するだろうか。

 東京駅前の東京中央郵便局は、紆余曲折のあった末に、外壁と建物の一部を残して保存されたが、同じ逓信省営繕課の吉田鉄郎が設計した大阪中央郵便局(1939年竣工)は、東京よりも完成度が高く、国重要文化財への指定の提言もなされていたにもかかわらず、壊されてしまった。

 現在、旧・東京中央郵便局の建物は、38階建てのJPタワーの低層階に部分保存され、東京大学総合研究博物館と日本郵便が連携した学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」として賑わっている。古い大阪中央郵便局のあった場所はどうか。「インターメディアテク」のにぎわいと比較して、お世辞にも大阪人は、イメージ戦略など、商売がうまいとはいえない。

 ミナミの場合は、難波の新歌舞伎座の跡地も、村野藤吾の設計した新歌舞伎座のファサードのデザインを残す形でこの秋、ホテルとして再出発する。髙島屋東別館(日本橋3丁目)も改装工事を経て国の登録有形文化財になった。


大大阪時代にしかできなかった建築

 現代の多くの大阪人が理解していないように感じるのが、「大大阪時代」の建物は、この時代の大阪でしか建てることのできない建築であるという認識である。取り毀してしまうと二度と戻らない貴重な文化財である。

 現代は日本各地に、旧大丸心斎橋店よりも高層の建築が建てられているが、資本さえあれば、どんな地方であっても、都市の歴史や文化と無関係に建設可能である。それらは巨大でも、よくある駅前再開発のように景観が均質化した、平凡な都会風景の一素材であるに過ぎない。

 しかし、大正末から昭和初期に大阪で建てられた建物は、活気に溢れ、パワフルだった「大大阪」であってこそ可能だったもので、「大大阪」建設に心血を注いだ大阪人のメンタリティーも強く反映されている。その歴史的事実を肝に据えないといけない。昨年、大阪メトロが出した心斎橋駅の改修デザイン案に批判が殺到し、反対署名が短期間で膨れ上がったのも当然だろう(この8月29日変更デザイン案が出された)。

 前述の『情報誌CEL』121号(2019年3月)にも書いたが、大阪の文化状況を見ていて思い出すのが、漁師が海から離れた山に植林するエピソードである。森林が無秩序に伐採され、山が荒廃すると、海に注ぐ川の水質も落ち、海での漁獲量が激減した。そこで漁師たちが山への植林に立ち上がったという。そこには自然との共生哲学も反映されているが、文化も同じで、採算性ばかりを優先して、都市全体の文化的植林がなければ、都市自体も枯れていく。

 現在の日本では、インバウンドを呼び込むのは当然であるようにされているが、長期を見すえて、何を後世のために、現代に生きる私たちは“植林”することができるのか、考えるだけではなく実践することも大事だろう。

 話は最初に戻り、新しい大丸のオープンを祝福したい。そして新しい店が、世界にかつての「大大阪」の繁栄とモダニズムを発信するとともに、地元に生活する市民の世代間を結んで体感温度のある“街の記憶”をよみがえらせ、精神的な空隙を埋めて、大阪が喪失したプライド復活につながる祝祭の場となることを願う。

大丸心斎橋店御堂筋側。このエントランスから入れる日がまたやって来た
大丸心斎橋店御堂筋側。このエントランスから入れる日がまたやって来た

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