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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

最終回 大阪チラシ学 事始め~生き馬の目を抜く商魂のたくましさ

 絵を掛ける人のキモチは、実際に自宅に掛けてみないとわからない。世界の美術館を歴訪しているからといっても、観光コースを回っただけで美術に関心のない人もいるだろうし、絵に趣味も興味もなかったが、記念にもらったお手頃価格の版画を玄関にかけ、それを見て出勤、帰宅を繰り返すうちに、だんだんと美術にはまりこんでいくこともあるだろう。

 江戸時代の画論にもあるように、最初はなにか分からなかった作品が、何度も見ることで目に慣れてくると、「人眼に熟して」違和感がなくなるのである。
 ところで、この6月、個人的に集めてきた大正末から昭和初期の大阪のチラシを、『大正昭和レトロチラシ 商業デザインにみる大大阪』(青幻舎)という本にまとめた。カバーの紙質も昔のチラシ風の紙を用いたという凝りようだ。
「買う」「食べる」「愉しむ」「受ける」「投じる」「旅する」の6章に分かれ、コラムも満載のオールカラー256頁(本体2,300円+税)
「買う」「食べる」「愉しむ」「受ける」「投じる」「旅する」の6章に分かれ、コラムも満載のオールカラー256頁(本体2,300円+税)

 多くは時代的に、大正14年(1925)第2次市域拡張で東京市を抜いて日本第1位、世界第6位のマンモス都市に膨張した大阪市の時代、つまり“大大阪”時代のチラシである。
 名市長・池上四郎と關一(せき・はじめ)によって、御堂筋や日本最初の公営地下鉄の建設、築港整備など都市基盤の建設や、市立大学の開校、美術館、電気科学館など文化施設の建設がなされた。民間でも百貨店やホテル、ホールなどが建設されている。

 チラシも広報物として、奇抜なデザインやコピーなどで人目を引くようにつくられるものであるが、何度も目にふれると「人眼」に熟したものとなり、その店の存在感が自然と人間心理に刷り込まれていく。
 そこで絵を掛けたい人のキモチとからめて、「レトロなチラシは、家の装飾にふさわしいか」が今回のテーマである。

チラシは時代を映す鏡

 現代は大量のチラシが家に投げ込まれ、すぐにゴミ箱に捨てないと郵便受けがパンパンに溢れてしまう。昔はチラシの裏をメモ用紙にするなど別の使い方もされたが、基本的にはゴミ箱に捨てられ、消滅するのがチラシの宿命である。だが、産業や消費文化、モダニズム時代の都市生活の魅力をただよわせ、時代ごとの街のすがたを知る上で興味深い。

 この本には、百貨店や洋服・呉服、靴、時計、貴金属などや薬局、食堂やカフェ、菓子、弁当ほか飲食店から、劇場や寄席、理髪店に選挙のビラ、銀行、電信、鉄道、飛行機まで多岐にわたり、織田作之助や手塚治虫ゆかりの大阪市立電気科学館(1937~1989)のプラネタリウムのチラシも掲載している。
四ツ橋交差点北東角の電気科学館は、戦前からナイター営業をしていた
四ツ橋交差点北東角の電気科学館は、戦前からナイター営業をしていた

 なぜこれほど様々な業種のチラシが残っているのかというと、もの持ちのいい好事家が集めて残していたのではなく、試し刷りと思われる色調の異なる同一チラシがあることから、印刷業者が見本や参考資料に保存していたものと考えられる。地域的に心斎橋筋や道頓堀、千日前界隈が多いので、商都大阪でも小売りの本場である都心の、腕に覚えある印刷所のものとみた。

 江戸時代から大阪は、「引き札」など広告印刷が盛んであり、その伝統をついだチラシたちである。壁に貼った地図にチラシの店をマークしていけば、大大阪の時代のショッピングマップもできあがるだろう。
色とりどりの華やかなチラシで勝負した、心斎橋筋の店。心斎橋筋2丁目から戎橋南詰の地図に、そこにあった店のチラシやパンフレットを当てはめてみた
色とりどりの華やかなチラシで勝負した、心斎橋筋の店。心斎橋筋2丁目から戎橋南詰の地図に、そこにあった店のチラシやパンフレットを当てはめてみた

商魂あふれるキャッチコピー

 デザインにはアールデコ風あり、元禄風ありで、見ていて楽しい。宣伝文句、キャッチコピーも、たくましい商魂にあふれている。
 まずは「革鞄の時代は去った」という増田商店のファイバー鞄のチラシである。
 ファイバーとは新開発のガラス繊維で、それを用いた鞄も軽くて耐久性に優れている。ゴロゴロと引っぱって歩く、旅行用の頑丈なキャリーバッグというところだ。
サービス精神全開のベタコピーと、モダンなイラストのミスマッチが見事
サービス精神全開のベタコピーと、モダンなイラストのミスマッチが見事

 チラシでは、紳士が客車から「イクラ投ゲテモ大丈夫」と、ぽんぽん旅行カバンをホームに投げている。こどもの時にテレビで見た、「象が踏んでも壊れない」という頑丈な筆箱のコマーシャルを思い出す。

 頑丈なことは分かるが、ホームに投げていいのか? カバンは大丈夫でも、中でお土産が砕け散っているのではないか。
 自転車の荷台用の箱を「命知らずのファイバーボテ」と呼ぶのも過激だ。ボテは張りぼての略称で、自転車にボテ箱を積んで荷物を運んだ。
 気になるのは、命知らずはボテか、自転車で疾走する店員のどちらか、ということである。

 頑丈で壊れないボテという意味のコピーだが、「命知らずのファイバーボテ」という言葉に、ボテの人格を感じてしまう。草履や食器や仏具などの使い込んだ器物が魂を宿して妖怪化したものを付喪神(つくもがみ)といい、「百鬼夜行」の絵巻などに描かれているが、このボテも付喪神となって店員にとりつき、無茶なスピードで市内を走り回っていたら大変だ。
 いまでも急に自転車が脇道から飛びだしたり、信号無視や猛スピードで横を走り抜けていくことが多く、ヒヤヒヤさせられる。妖怪化した「命知らずのファイバーボテ」は、現代人にも憑依している気がする。

「不景気ヲブッ飛バス犠牲大奉仕」とある靴店の天華洋行も強烈だ。店は淀屋橋に本店、心斎橋に支店があり、チラシには外国人の顔が大きく印刷されている。この人物、誰もが靴屋の社長かと最初は思うが、実は第31代米国大統領のハーバート・フーヴァー(1874~1964)である。
このチラシを見て泣き出す子どもが多かったのでは?
このチラシを見て泣き出す子どもが多かったのでは?

 コピーも「今やフーバー景気時代 来たらんとす!!」と煽る。「靴一足お買上げの方に履換靴洩れなく進呈」と豪語するのも、フーヴァーの選挙スローガンであった「どの鍋にも鶏一羽を、どのガレージにも車二台を!」を連想させる。二足目からは半額という靴の販売はいまでもあるが、それと少し似ているかもしれない。
 しかし、このチラシの凄みは、その経済政策によりフーヴァー就任から半年後の昭和4年(1929)に、悪名高い世界大恐慌に突入したことである。

 我々の時代にもバブル崩壊やリーマンショックがあったし、コロナウイルスによる経済への深刻な影響を前にして、昭和4年の世界恐慌の大変さも想像がつく。
 世界恐慌が勃発する直前のチラシを眺めていて、気になるのが、靴一足を買うともれなくついてくる履き替え靴のプレゼントである。この数ヶ月後、大統領の明るい表情は一変するが、チラシをもって来店した客にサービスする体力が靴屋にあったかどうか。それが気になって仕方がない。

心斎橋といえば「丹平ハウス」

 特色あるのが、心斎橋筋2丁目にあった丹平ハウスである。医薬品製造販売の丹平商会(現・丹平製薬株式会社)は、明治27年(1894)に八幡筋と三津寺筋のあいだの心斎橋筋東側に開業した。北隣が呉服の老舗・小大丸(こだいまる)で、南隣は、後に初代大阪市長に当選する田村太兵衛の丸亀屋呉服店である。太兵衛は当選後、店をたたみ、その後に髙島屋が進出する。丹平商会の主力商品が脳神経薬「健脳丸」であり、明治31年(1898)には権利を得て歯痛薬「今治水(こんじすい)」の販売を開始した。

 大正13年(1923)、同所に丹平ハウスが建てられる。間口5間、地上3階、地下1階、鉄筋コンクリートの最新複合商業ビルで、1階は心斎橋筋から裏の別館まで通路が抜け、通路北側は丹平薬局、南側でアメリカ式のソーダ・ファウンテンを営業した。ソーダ・ファウンテンは大理石のカウンターでソーダ水、アイスクリーム、ホットドック、丹平サンドウイッチを販売し、奥に喫茶室があった。
この頃、「薬局」と「喫茶」の意外な組み合わせは珍しくなかったのかもしれない
この頃、「薬局」と「喫茶」の意外な組み合わせは珍しくなかったのかもしれない

 2階は美容室に写真室、画廊、貸事務所。美容室はフランス風を意識しつつも宗右衛門町に近い土地柄、日本髪も扱った。建物東側には医療クリニックを集めた別館も設けられている。

 洋画家赤松麟作(1878~1953)の赤松洋画研究所と、安井仲治(1903~1942)を指導者とする丹平写真倶楽部は、この建物2、3階に開かれた。『写真心斎橋』(心斎橋新聞社刊、1935年)を見ると、ソーダ・ファウンテンのカウンターの後に赤松の《静物》が架けられ、その様子はチラシにも描かれている。
 喫茶室にも赤松の水辺の裸婦の大作があり、湖水に天使達が飛翔するような絵であったという。丹平ハウス開業と同じ年である大正13年(1924)の第1回大阪市美術協会展に出品した《水辺》と思われ、オープンに前後して飾られたのだろう。

 チラシの絵は、赤松麟作か洋画研究所の画家が描いたと思われ、石鹸のチラシは、赤松がお得意の裸婦像であるし、目薬のデザインも、アイラインがどこか当時流行のエジプト風である。
石鹸のチラシは、赤松がお得意の裸婦像であるし、目薬のデザインも、アイラインがどこか当時流行のエジプト風である

 裏面に記されたソーダ・ファウンテンの広告も楽しい。
単色のチラシなのに、華やかさにあふれている
単色のチラシなのに、華やかさにあふれている

「美味と滋養/果汁(くだものゝしる)ゼリーデー/八月十四日より二十日まで」

 果汁のルビの「くだものゝしる」がなんとも即物的である。

「レモンゼリー/イチゴゼリー/オレンヂゼリー/チエリーゼリー/パインアツプルゼリー/コーヒゼリー/ブドーゼリー/ペパーミントゼリー/挽茶(ひきちゃ)ゼリー」

 表記はレトロだが、内容的には現代とそんなに変わらないメニューである。

「アイスクリーム/果汁ソーダ水/ヒヤシコーヒ/紅茶とコーヒ」

 当時、珈琲は現代のように「コーヒー」とひっぱらず、「コーヒ」と短く発音していた。ここもアイスコーヒーを「ヒヤシコーヒ」と呼んで冷やし飴みたいだが、高校時代、悪友等と喫茶店で、「ぼく、アイスコーヒー」「冷コ」「コールコーヒー」「冷やしコーヒー」と注文した日々を思い出す。確かに「冷やしコーヒー」を略したら「冷コ」になる。

「佛國葡萄酒新荷着(フランスブドウシユウシンニチャク)」とあるのはボジョレーヌーヴォーのことか。
表面(こちらは裏)が色鮮やかなので、見事に裏写りしている
表面(こちらは裏)が色鮮やかなので、見事に裏写りしている

「純粋の佛蘭西(フランス)フルコイン産/赤、白の葡萄酒を輸入しました」「一杯 金 五十錢 一瓶 金 參圓」「感冒(かぜ)の豫防(よぼう)に/食慾亢進(こうしん)し/身體(からだ)を温める」「冬の好飲料(よいのみもの)/滋養豊富」

 他にも「ス井ートポテト(味付いも)」「ベケードアップル(やき林檎)」「ミートパイ(ひき肉入)」など、おいしそうだ。

当時先端の流行語は「尖端」

「尖端」という言葉もチラシによく登場する。ミナミで[いづもや]といえば、うなぎの代名詞だったが、チラシを見ると鰻まむし(鰻丼)が25銭で、「滋養の尖端」とある。「出前は超特急」とあるチラシは、注文するとエイヤエイヤと御神輿で持ってきてくれそうな勢いだ。
昭和39年(1964)に東海道新幹線が開業したときのキャッチフレーズは「夢の超特急」だったが、30年以上前から「超特急」を先取りしていた
昭和39年(1964)に東海道新幹線が開業したときのキャッチフレーズは「夢の超特急」だったが、30年以上前から「超特急」を先取りしていた

 さらに「女給」がサービスする風俗店としての「カフェ」もエログロナンセンスの時代らしく「尖端」が好きで、「断然!! 文化の尖端を走る麗人の決死的サービス」(キャバレー日本橋)、「昔堅気のおやぢ滅ぶ 新時代の尖端を行く女将の軟派サービス」(カフェーイチロウ)など、「尖端」が氾濫する。キャバレー日本橋の「御客様吸収器設置」も意味深長だ。
「決死」なんて書かれたら「どんだけ取られるんや!?」とビビリます
「決死」なんて書かれたら「どんだけ取られるんや!?」とビビリます

 和風を意識した千日前の「カフェー忠臣蔵」のチラシは、ここも「時流の尖端美女の超○?サービス」とある。
「無我の天国の恋に酔」ったあとには、どんな「お会計」になるのだろうか……
「無我の天国の恋に酔」ったあとには、どんな「お会計」になるのだろうか……

 店の廊下で刃傷沙汰でもあったのか、この勢いでどこに討ち入るつもりか心配だが、『夫婦善哉』に登場する下寺町電停前の「サロン蝶柳」を連想させる。

 『夫婦善哉』の店も音楽に新内(しんない)、端唄(はうた)などを流す日本趣味の店で、「カフェー忠臣蔵」などの時代の嗜好を織田作之助は小説でとりあげたと思える。ちなみに道頓堀の角座では、同じ時期にお芝居の『不忠臣蔵』が上演されている。

 ついでに芝居町・道頓堀のチラシをみると、手の込んだものに切り抜きのチラシがある。道頓堀五座のひとつが角座。映画「ノンキナトウサン」主演の曾我廼家五九郎(そがのや・ごくろう)の公演は、漫画そのままの姿にチラシを切りぬいている。
映画「ノンキナトウサン」主演の曾我廼家五九郎(そがのや・ごくろう)の公演は、漫画そのままの姿にチラシを切りぬいている

「淡海節」で一世を風靡した志賀廼家淡海(しがのや・たんかい)のチラシも円形や砲弾型。切り抜きは角座好みか。
「淡海節」で一世を風靡した志賀廼家淡海(しがのや・たんかい)のチラシも円形や砲弾型。切り抜きは角座好みか

 大正12年(1923)、ミラノのスカラ座をモデルに建てられた松竹座。映画『タッチダウン』(1931年)のチラシも、ラグビーのボールの形をし、裏面が松竹楽劇部の優雅な「春のおどり」。「松竹座ニュース」表紙は、分離派からアール・デコまで採り入れたデザインである。
『タッチダウン』アメフトが題材の映画かと思いきや、ラグビーの話である
『タッチダウン』アメフトが題材の映画かと思いきや、ラグビーの話である

 同じ五座でも朝日座は少し地味だが、そこで上映された『生活線ABC』は、細田民樹の小説を昭和6年(1931)に映画化し、田中絹代が主演したもの。チラシは略すが、原作の小説の装釘は派手だ。
細田民樹『生活線ABC』中央公論社(1931年)。硲伊之助の装釘がモダン
細田民樹『生活線ABC』中央公論社(1931年)。硲伊之助の装釘がモダン

 千日前の楽天地での「最新式連鎖劇」は、舞台で実演と映画が交互に連続する。
千日前の楽天地での「最新式連鎖劇」は、舞台で実演と映画が交互に連続する

 明治45年(1912)、通天閣やルナパークを中心に誕生した新世界のラジウム温泉のある温泉劇場では、乙女文楽やレヴューが公演された。
 ヴアージニア嬢と温泉歌舞劇団の「納涼大レヴュー」は、「一九三〇年型の尖端を往く画期的大レヴュー」で「エロで可愛く 朗らかな明るい 人魚美人達」とあり、ここも「尖端」が登場している。
観音開きなので、このサイドにも印刷面があるのだが……あしからず
観音開きなので、このサイドにも印刷面があるのだが……あしからず

選挙のビラ、チラシも人情に訴える

 選挙チラシも凄い。昔のドブ板選挙だ。政策問題以上に情に訴え、大阪市南区(現中央区)の区会議員選挙での阿部蝶三のビラも、明日の投票を前に、浄瑠璃か浪花節のような台詞がつらなる。
自らを「救へ!!」と強調するのがアホらしさを通り越して素晴らしい
自らを「救へ!!」と強調するのがアホらしさを通り越して素晴らしい

「いよいよ明日! 最後の御願ひ、最後の一矢まで放ちました。最後の一兵まで動員しました。肉弾、丘弾戦って戦って戦いぬきました。悽壮、悲壮、実に苦しい戦いをつゞけて来ました。ただ この上のお願ひは、乞う最後の一瞬! 阿部を救へ!! この涙あるお言葉をお聞かせ下さい。そして絶大なる御同情を垂れ賜へ。連日の悪戦この苦闘を最後の栄冠に依て彩って下さるよふ、切に切にお願ひ申し上げます」。

 港区九條通で「興行主にして桝谷組を主宰」する桝谷寅吉(1879~1953)は、昭和3年(1928)の第1回普通選挙に立憲民政党から出て衆議院議員に当選して連続4期つとめた。「貴下の一票に生きる桝谷 任侠なる貴下の御同情は 孤立無援の桝谷寅吉へ」のコピーも義理人情の浪花節である。
「任侠なる貴下の~」サブちゃん(北島三郎)の唄にのって登場しそう……
「任侠なる貴下の~」サブちゃん(北島三郎)の唄にのって登場しそう……

 アールデコ風や構成主義的な角張って直線的なデザインと、必死のコピーが「ドブ板」の生々しさを感じさせる。

 大阪で有名なのが、大阪府医師会会長や府会議員となり、府会議長もつとめた薄恕一(すすき・じょいち/1867~1956)である。南区(現中央区)谷町六丁目の薄病院の院長で、力士を無償で治療し、相撲の後援者「タニマチ」の語源となった。
秘密結社めいたポスター。「恕」という字が怨念のような凄まじさを感じさせる
秘密結社めいたポスター。「恕」という字が怨念のような凄まじさを感じさせる

 幼稚園のころ薄に命を助けてもらった直木三十五は、同院でのアルバイトで学費も稼ぎ、自伝「死までを語る」で恕一への感謝を語っている。
 面白いのが船場は平野町(現・大阪市中央区)のスギノ茶舗のチラシ。タイトルは「総選挙とお茶」。
濱口(左)はこの昭和5年(1930)11月、東京駅での銃撃がもとで、犬養は2年後の5.15事件で命を落とした
濱口(左)はこの昭和5年(1930)11月、東京駅での銃撃がもとで、犬養は2年後の5.15事件で命を落とした

「明るい正しい政治を要望しつつある今日吾人の持つ清き一票を如何に行使す可きか?」と問いかけ、「この大問題を解決するキーはスギノのお茶!!!」「偉人豊太閤も難問題に苦しむ時は茶の湯を立て心神を爽かにして解決せり」と宣伝する。

 画面右の白髭は立憲政友会の犬養毅(いぬかい・つよし/1855~1932)、左は立憲民政党の濱口雄幸(はまぐち・おさち/1870~1931)。両総裁は昭和5年(1930)の第17回総選挙で激突しており、その時の広告だろう。あっなるほどっ!と思わず膝を打ちそうになったが、なかなかの便乗広告が、わびさびを超越してタイムリーである。

 一人心配なのが、南区区会議員候補の山野管次。このチラシ、目がチカチカして名前が読めまへん……。
選挙ポスターに旭日旗があしらわれ、時代の歯車がおかしくなっていく……
選挙ポスターに旭日旗があしらわれ、時代の歯車がおかしくなっていく……

ポスターとチラシの違いは

 問題はこうした紙ものを額装し、鑑賞目的で自宅に掛けかどうかである。恐らく否定的な答えが多いだろう。

 同じ広報媒体でも、ポスターは、もとから壁面に掲示するために制作されており、トゥールーズ=ロートレック(1864~1901)の《ディヴァン・ジャポネ》などは美術品であるし、佐伯祐三のパリの風景にも様々な街頭のポスターが描かれている。
 実際映画のポスターやアイドルのポスターなど、居室の壁に掛けても鑑賞に耐える。

 対してチラシは、手渡しされ、捨てられることの方が多い。紙質も粗悪で、月ごとのスーパーの案内を額装して自宅にかけ、うっとり眺めるなどは珍しいことだろう。同じ紙ものの広報物でも性格が異なるのである。
 ただ、チラシの元祖である江戸時代や明治時代の「引き札」は、浮世絵師が刷ったものもあり、レトロな雰囲気の美術品として鑑賞できるかもしれない。

 私がコレクションしたものでは、錦絵によるうどん屋の領収書がある。戎橋の北詰西側にあった麺類・うどんすきの丸万(西村半助)のぜいたくな錦絵による領収書だ。
こんな領収書ほしさに、わざわざ出かけて行きたくなる
こんな領収書ほしさに、わざわざ出かけて行きたくなる

 丸万の座敷が描かれ、床の間の掛け軸に、金弐拾銭を受けとり奉り候ということが記されている。鉄橋の戎橋のむこう、幟がはためく芝居小屋は浪花座である。時代は明治末か大正か。

 いまは、領収書にあるうどんすき代よりも古書店でこの領収書を買う方が高い。これを額装して玄関に掛けるのはどうだろう。伊丹十三の映画のようにマルサに家宅捜査されても、これが領収書とは思わないのではないか。
 とはいえ、チラシの本を出した私も、チラシを額にして家に飾るというようなポップな境地には到っていないが……。

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