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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第22回 空飛ぶ船と山水画−絵には入り口がある

 年の瀬である。大学では、卒論や修論に悩む学生たちを指導してきたが、いよいよ、新年そうそう提出されるであろう論文を読み、一人一人に諮問せねばならない。私の場合、日本美術史なので、専門の江戸時代から近代の絵画をはじめ、現代美術や仏像仏画の論文も読むことになり、実にエネルギーを要する。

 正月前にそうした覚悟も固めなくてはならないのは、毎年のことだが、ふと与謝蕪村(よさ・ぶそん/1716~1784)のことを思い出した。

 蕪村は、「春の海 終日(ひねもす) のたりのたり哉」「菜の花や月は東に日は西に」などの句で知られる俳人であるとともに、江戸時代を代表する文人画家である。

 京都東山を思わす夜の街に、しんしんと雪が降り積もる《夜色楼台図》(やしょくろうだいず/個人蔵)や、池大雅との競作で中国の文人、李笠翁(りりゅうおう=李魚)が別荘・伊園の生活をうたった詩を絵画化した《十便十宜図》(じゅうべんじゅうぎず/川端康成記念会所蔵)は国宝に指定されている。こんな住まいも味わい深くて、よろしいですね。

与謝蕪村《宜暁図》国宝《十便十宜図》 川端康成記念会蔵
与謝蕪村《宜暁図》国宝《十便十宜図》 川端康成記念会蔵

 今を去る30数年前、私が書いた卒論のテーマが蕪村だった。相談に来る学生諸君を見ていて、ガスストーブで炙ったフランクフルトを夜食に、卒論を書いていた私自身の学生時代を思いだし、感傷にふけっていたところに、住ムフムラボの原稿依頼がきたのである。
 “絵を掛ける人のキモチ”としては、蕪村の作品を題材に、絵画に仕組まれた入口の話と、東洋画の遠近法について紹介してみよう。


 蕪村が生まれたのは、現在の大阪市都島区の毛馬(けま)付近で、生誕の記念碑が新淀川の土手に建てられている。十代後半で江戸に行き、俳諧の師匠の没後、北関東を遊歴した。

淀川河川公園に建つ蕪村生誕地の碑。故郷を離れて以後、二度と毛馬には戻らなかったが晩年、『春風馬堤曲』で故郷への郷愁を詠んだ。句碑には自筆の句「春風や 堤長うして 家遠し」が刻まれている(大阪市都島区毛馬町)
淀川河川公園に建つ蕪村生誕地の碑。故郷を離れて以後、二度と毛馬には戻らなかったが晩年、『春風馬堤曲』で故郷への郷愁を詠んだ。句碑には自筆の句「春風や 堤長うして 家遠し」が刻まれている(大阪市都島区毛馬町)

 画家としての蕪村はスポーツマンに例えると、人生の長距離ランナーという意味でマラソン選手に似ている。20代〜30代は絵は拙かったが、荒々しくも個性的であった。36歳で京都に帰ってきて、京都に残る室町や桃山時代の名画を学ぶとともに、新しく長崎経由で渡来した中国画なども吸収する。さらにパトロンを求めて、丹後の宮津や四国の讃岐などにも出かけ、画力を高めた。天明3年(1784)68歳で没するが、63歳以降に用いた画号「謝寅(しゃいん)」落款時代の作品が、画業の到達点とされ、《夜色楼台図》など、謝寅時代の代表作である。

与謝蕪村《夜色楼台図》国宝
与謝蕪村《夜色楼台図》国宝

 その蕪村が、明和3年(1766)から明和5年(1768)頃、讃岐に滞在したとき描いたのが《春景山水図》である。50歳前後の作である。

与謝蕪村《山水図》全図 個人蔵
与謝蕪村《春景山水図》絹本墨画着色 113.4×134.1㎝ 個人蔵(山本健吉・早川聞多『蕪村画譜』毎日新聞社、1984年より)

 落款には、「象頭山下臨川亭」で写したとあり、金刀比羅宮のある象頭山(ぞうずさん)の麓にある臨川亭で描いたことが分かる。背景の大きな山が象頭山のイメージだろう。臨川亭というのは、読んで字の通り、川の近くにあった建物と思われる。

 讃岐時代は、蕪村が「謝寅」となって大成する以前だが、関東から戻って日も浅く、なにかと格式高く、窮屈そうな京都を離れたことで開放感に浸ったのか、丸亀市の妙法寺の《蘇鉄図》のような、南国的で、のびのびした筆致の作品も残されている。この間、一時、京都にもどり描いたのが、銀閣寺で知られる東山の慈照寺(じしょうじ)本堂の襖絵である。

 さて、卒論を書いたときから讃岐時代の《春景山水図》が気になっていた。
 場所は金比羅さん付近だが、中国趣味の文人画として、絵は漢詩に登場するような中国風景に描かれている。屋敷の前には、文人画によく登場する知識人である「高士」が立つ。川を隔てた手前の道には、荷物を担いだ従者らしき人物が歩いている。

与謝蕪村《春景山水図》中央やや右下
与謝蕪村《春景山水図》中央やや右下

 画面中央の高士は誰だろうか。
 ひとつの考えでは屋敷の主人で、友だちが訪れるのを家の外に出て待っているのかもしれない。隣に犬がおとなしくすわっている。荷を担いだ従者は、いまから高士を訪れる友だちの付き人で、主人より一足早く屋敷の対岸に到着したのかもしれない。来るべき待ち人の姿は、まだ画面の枠内に入っていないことになる。

 別の考えでは、画面左の屋敷の窓のなかに見える人影が臨川亭の主人となる。

与謝蕪村《春景山水図》左下部分
与謝蕪村《春景山水図》左下部分

 とすると、画面中央の高士が来訪者で、早く臨川亭の主人に会いたくて、荷を背負って歩みの遅い従者を振りかえり、「おーい、早く来いよー」と呼んでいるように見える。

 絵を鑑賞するとき、まず最初、サッと背景の山や川を眺めるが、次に画面中央に立つ高士に気づくと、何をしているのか気になってくる。この《春景山水図》の場合、中央の高士の視線、ポーズなどから、その気持を読みとろうとし、われわれの自身も作品に描かれた山水のなかに、しだいに感情移入していく。

 絵画に仕組まれた入口とは、作品を見る人が、感情移入をできるモチーフ、つまり入口が画面に設けられているという意味である。この蕪村の《春景山水図》では画面中央に立つ高士その人だろう。

 そして、金比羅宮に参詣したことがあれば、参道の賑わいや、無数に続く石段を登ることの辛さ、登り切った山上の舞台からの眺望のすばらしさを思い出すだろうし、そんな個人的な思い出が、中国風のこの《春景山水図》とも重ね合わされ、愉快な気分になるかもしれない。

 しかし、このなんとも風雅な作品に、学生時代の私がひっかかったのが、背景遠くに描かれた帆船である。

与謝蕪村《春景山水図》右上部分
与謝蕪村《春景山水図》右上部分

 これ、ひょっとして空中を飛んでいるように見えませんか?

 金比羅宮のあたりから見て、遠くに船が航行するのは、瀬戸内海のはずだが、そうだとすれば、画面の背後に海がぐっと起き上がっていることになり、どこか不条理な空間に感じられる。
 この不自然な空間描写は、讃岐時代においても、蕪村の画が未熟だったということなのだろうか。あるいは、日本や東洋の絵画というのは、西洋の絵画と比べて、正しい空間認識が未発達で後進的なのだろうか。学位時代、そんなことを思ったりしたのである。


 しかし、それは間違った解釈であったと思う。絵画を鑑賞するため理解しておくべきが、遠近法である。遠近法には様々な種類がある。
 遠くにあるものは小さく、近くのものは大きく描くといった素朴な表現からはじまって、遠くにあるものほどかすんだり、青く見えるという「空気遠近法 (atmospheric perspective)」もある。

東北出張の途中、筆者が飛行機から撮影した富士山。山並みが遠くに行くほど段階的に、青く薄くなっているのが分かる
東北出張の途中、筆者が飛行機から撮影した富士山。山並みが遠くに行くほど段階的に、青く薄くなっているのが分かる

 西條八十作詞・服部良一作曲「青い山脈」というタイトルも、青春の真っ只中にいる若者たちの暗喩であるとともに、「空気遠近法」で解釈すれば、現実的な日常生活を余儀なくされ、実現すべき目標が近接してリアルな中高年とは異なり、若者が抱く夢や希望は遙か遠くにあり、遠いだけに青く淡く見えることになる。

 また、現代人が日常的に目にするのが「線遠近法 (linear perspective)」である。四角い建物が建て込んだ街中を描く時などに有効で、建物の完成予想図などに用いられる「透視図 (perspective drawings)」などがそれである。何本かの線をまっすぐ引いて行った先で線が集まる「消失点」があり、「消失点」の数で一点透視図法・二点透視図法・三点透視図法などがある。

 現実の風景で「線遠近法」を実感したければ、大阪の心斎橋筋に行けばよい。再オープンした大丸心斎橋店の前に立ち、南側を眺めれば、アーケードのラインが真っ直ぐ伸びていき、道頓堀に架かる戎橋を越え、戎橋筋商店街のアーケードのなかあたりを「消失点」として収束していくのが分かる。

大丸の少し南、心斎橋筋周防町から南を望む。通りに溢れたインバウンドの外国人たちも「線遠近法」の中にとらえられている
大丸の少し南、心斎橋筋周防町から南を望む。通りに溢れたインバウンドの外国人たちも「線遠近法」の中にとらえられている

 そして、東洋の絵画独自の遠近法としてあるのが、一つは「逆遠近法」である。王朝文学や説話などを題材にした絵巻物などで用いられる手法で、御殿などのなかを空中から見下ろすとき、西洋的な「線遠近法」とは逆に、手前から奥の方が広がっていくように描く。

 この描き方でないと、いくら大きな御殿であっても、奥の方が窮屈になって、上座に居る物語の主人公や位の高い大臣などが、手前に侍する家臣よりも画面上で小さくなってしまう。

 さらに、山水画を描くときに用いられるのが「三遠法」である。北宋の画家・郭煕(かっき/1023~1085頃)が、著書『林泉高致』(りんせんこうち)に著した山水画における三種類の遠近法の総称で、「高遠」「深遠」「平遠」から成る。

 青木正児・奥村伊九良訳注『歴代画論 唐宋元篇』(弘文堂書房、昭和17年)から『林泉高致』の訳を挙げると、
 高遠は「山の下から山顛(さんてん=山頂)を仰いだ見方」
 深遠は「山の前から山の後を窺い見る見方」
 平遠は「近山から遠山を望見した有様」
となる。

 単純なようにみえて解釈は難しいが、「高遠」は、下から高い山の頂をみあげた視点、「深遠」は、山の前から山の後を望んだ視点で、正面の高い山の向こうにさらに聳える山々や、谷が深く重なっている様子とも解釈できる。「平遠」は、平野が広がる向こうに遠くの山が見えるといった感じだろうか。

 郭煕は、「高遠の色は清く明るい。深遠の色は重く晦(くら)い。平遠の色は明暗様々である。」と述べ、「高遠の勢は突っ立っている。深遠の趣きは幾重にも重なっている。平遠の趣きはなごやかではるばるとしている。」ともする。

 こうした三つの異なる遠近に関する視点を、一つの画面に封印したのが「三遠法」であった。
 郭煕の作品と伝えられるのが、台北の国立故宮博物院所蔵《早春図》である。

郭煕《早春図》全図 国立故宮博物院(台北)蔵
郭煕《早春図》全図 国立故宮博物院(台北)蔵

 奇々怪々な形をした巨大な山岳が、見上げるように正面に聳えている。実在の名山というより、夏空にむくむく湧き起こる入道雲を見上げているようにも思える。これが「高遠」だろう。

 一方、画面中央の山の峰は、手前からその後へといくつか列をなして重なっていく。また、画面右には、落ち込んだ渓谷があって滝が描かれている。奥へと列なる山の峰や、滝のある渓谷の重なりは、手前の山から背後をのぞき込んだ形として「深遠」だろうか。

郭煕《早春図》右部分 滝の上部に楼閣がある
郭煕《早春図》右部分 滝の上部に楼閣がある

 画面左には平らな土地が広がり、奥へ奥へと視線を誘導する。遙か遠くに山脈が見える。これが「平遠」だろう。

郭煕《早春図》左上部分
郭煕《早春図》左上部分

 蕪村の《春景山水図》で、船が空を飛んでいるように感じたのも、こうした異なる遠近表現を一つの空間に融合させた結果、西洋的な透視図法の視線に慣れた現代人の目に、奇妙に見えたから違いない。


 では、なぜ「三遠」のような複雑な表現をするのか。そもそも山水画とは一体何か。風景画とは異なるのか。そこが問題となる。
 郭煕は、山水画が愛される理由を『林泉高致』で言う。

「君子が山水画を愛する理由の、その主旨は何所に在るか。山家に隠棲して人間の天真を養うのは誰も行いたいことである。山水の間に悠々と遊び暮らすのは誰にも楽しいことであろう。魚樵(ぎょしょう)の生活をし乍(なが)ら隠棲するのは誰の心にも適する所である。猿や鶴の飛び鳴いている様は誰も見たいと思うであろう。騒がしい塵界で俗事につながれるのは、此れ人情の誰も厭う所である…。」
 人間誰しも、仕事とは言え、意に染まぬ事もやらされたり、あくせくと俗事にしばられた日々の生活から逃れたい。できれば、静かで空気のよい山や海の家に隠棲して、悠々と遊び暮らしたい。

 最近、テレビで「ポツンと一軒家」という番組が流行るのも、そうした脱都会、脱日常的なものへの憧憬があるためだろう。しかし現実は、そんなには甘くはない。職場と自宅の間の往還で、1年などあっと言う間に過ぎてしまう。とほほの人生である。しかし、である。

「ところがここに、名手があって鬱然たる山水画を描き出したとすれば、我々は室内で、居ながらにして泉壑(せんがく)の風景を窮めることができ、猿声鳥啼は髣髴(ほうふつ)として耳に聞こえ、山水水色は滉漾(こうよう)として目を奪うであろう。此はまことに人の心を楽しましめ己が心を満足せしめることではないか。此れが世の山水画を貴ぶ理由の本旨である。」
 つまり、名人が描いた山水画があれば、われわれは自宅の居間にいて、山の中にいるような気分になれるというのである。

 中国には「胸中山水」という言葉がある。現実の山ではなく、心の中に聳える理想の巨峰や山脈とでも言おうか。魂のなかの山水郷をイメージすることで、いくばくかは精神的に救われる。それを実感させるものとして山水画は描かれたのである。

 インターネットの発達で、世界中の美しい景色を、いつでもモニターに映し出せる時代になってはいるが、それのない遙か昔のこと、山水画は、なかなかの発明品だったはずだ。
 そして《早春図》にも視覚的な入口がある。画面左下に船が到着している。われわれもまた、この船に乗って岸に到着し、ここから右側の滝や、山上の楼閣などを巡って、雲のような山頂へと登っていくのである。

郭煕《早春図》左下部分
郭煕《早春図》左下部分


 ここで次のステップである。本格的な登山でなくてよい。生駒山や六甲山、比叡山などのハイキングでも思い出してもらいたい。

 まず、麓の登山口に到着し、今からあそこまで登るんだと意気込んで山頂付近を見上げている。これが「高遠」だ。空は快晴で「高遠の色は清く明るい。」となる。

 元気いっぱい樹木に覆われた登山道を登って行くと、樹木が生い茂って見通しは悪いが、滝の音がどこかから聞こえはじめる。木立の間から谷底へと流れる渓流がチラッと見えるかもしれない。「深遠の色は重く晦い。」のはこの辺りだろうか。谷を挟んだ向こうには、別の稜線の盛り上がりが列なっているようだ。

 そして、急に見晴らしの良いところに出る。展望台などが設けられ、開けた視界の中に遠くの山並みが眺められるし、足もとには麓の街々や今通ってきた谷が沈んでいる。「平遠の色は明暗様々である。」というのはこれだろう。さらに、また暗い森に入ったりして、山頂へと進んでいく。

 こうした登山やハイキングの体験を、カメラで写真に収め、帰宅してからアルバムに整理したらどうだろう。
 登山口での見上げた山の写真と、薄暗い山道や谷間の写真、展望台から見下ろした開放的な空間の写真など、視点の異なる写真が何十枚も並ぶことになる。
 写真一枚だけをピックアップして、その日の山での体験を語り尽くすことはできない。
 ところがこれを動画に撮影したらどうだろう。出発の登山口から連続して薄暗い谷間や滝での体験、展望台での見晴らしが一つの動画のなかでつづいていく。

 場面場面の写真によって、登山やハイキングを追体験する、いわば西洋的な視覚体験に対して、東洋画の用いる「三遠法」によって描かれた山水図とは、動画の映像をそのまま一つの平面に統合したようなものである。船が空を飛んでいるような蕪村の《春景山水図》も、この絵の中に入り込んで、うろうろ視線の散歩を楽しんでいる鑑賞者にとっては、また独特の楽しみあるモチーフだったのだろう。

 そこでまた思い出したのが、大阪府池田市の五月山に阪急電車に乗って行った小学校低学年の時の遠足である。おそらく昭和40年(1965)小学校2年生の秋の遠足だったろう。我が家は物持ちのいい家であるので、帰ってから図画工作の宿題で描いた遠足の絵巻物が、本棚の隙間から出てきた。

筆者画《五月山遠足図巻》1965年より。右が阪急池田駅、左が五月山展望台。帽子をかぶり駅で手を上げているのが男の先生。建物にある変な鼓の形は,阪急のマークを描いたつもり
筆者画《五月山遠足図巻》1965年より。右が阪急池田駅、左が五月山展望台。帽子をかぶり駅で手を上げているのが男の先生。建物にある変な鼓の形は,阪急のマークを描いたつもり

 それが見たくなったので箱から出すと、阪急電車が駅に着いたところからはじまり、紅葉の五月山へと登っていく。動物の檻が描かれているのは、昭和32年(1957)に開園した五月山動物園だろう。そのあと猪名川に出て、川に石投げをして遊んだ。

同図巻。前出の左端からこの右端へと続く。中央に五月山動物園の檻、左が猪名川
同図巻。前出の左端からこの右端へと続く。中央に五月山動物園の檻、左が猪名川

 そんな一日の出来事を絵巻に描くのは、「異時同図法」なのだが、どこか山水画風を感じたりする。でも、さすがに船は空を飛んではいない。
 そういえば池田市には、小林一三のコレクションを中心とした逸翁(いつおう)美術館があり、日本有数の蕪村のコレクションがある。
 ちなみに、12月25日は蕪村の命日であった。

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